6 ステファンとハンナ
「無事にケイン様を村まで送り届けて来ました。エレン様、出過ぎたことと承知の上で申し上げますが、お人好しも大概になさらないとエレン様が危険な目に遭います」
「ケインの追手がここまで来る可能性も考えたわ。でもほら、最悪の場合はあの出口があるし。あ、そうだ。まだあの通路が崩れていないか確かめてくるわね」
「そんなことは自分がやります。話を逸らさないでください」
「ごめんね、ステファン。怒らないでよ。コラッソンの解毒剤の効き目と経過観察ができたのは大変な収穫なのよ。なかなか出会わない毒なんだもの。でも、あなたとハンナを危険に晒したかもしれないし、余計な手間をかけさせたことは反省しているわ」
「怒ってはおりません。手間を惜しんでもおりません。自分はエレン様のことが心配なのです」
「それはわかってるの。本当にありがとう。今後はもう少し慎重になるから。それと、防犯の罠を考えておくわ」
ステファンは小言はそこまでにし「罠って」とつぶやきながら避難通路の確認をすることにした。
奥の部屋のベッドの下の床板を外すと、ステファンのような大柄な男でも四つん這いでなら通れる通路がある。それは山小屋の裏手の大木の陰に出られるように作ってあった。
こんな隠し通路を作ったのはフランカ夫人で、夫人は念には念を入れる性格のようだ。秘密の通路をしゃべられては困るからと、作業員も遠くから信用のできそうな人間を集めて作業させたらしい。
ステファンは床板を持ち上げ、暗い石造りの通路に入った。湿気てはいるが崩れてはおらず、サクサク進むことができた。最後に出口の板を持ち上げるのにかなり力が必要だったので、板の上の土を少し避けて枯葉を被せておこう、と判断した。
通路から抜け出ると既にそこでエレンが待っていた。
「お疲れ様。早かったわね」
「いらしてたのですか」
「薬草を採りに行くから付き合ってくれる?」
「かしこまりました」
「あ、落ち葉がついてる」
エレンが背伸びをしてステファンの金色の短い髪からそっと落ち葉を取り除いた。
「ありがとうございます」
ステファンの耳と首が赤くなっていたが歩き出したエレンは気づかない。
二人で森の奥に進む。エレンは目ざとく次々と薬草を摘んで籠に入れていく。ステファンは辺りを警戒しながら付いて歩く。
「ステファン、この前あなたのお父様に買い入れてもらった南国の貝殻ね、加工品が良い値段で売れたらしいわ。高級ボタンやアクセサリーになったそうなの」
「お役に立てたなら父が喜びます。それと珍しい毒が手に入ったら、それもお届けするよう伝えます」
「助かるわ!」
振り返ってふにゃっと笑う顔が愛らしい。
ステファンの父親は小さな貿易商を営んでいて、エレンはお得意様だ。思わぬものを輸入しては思わぬ物に加工してこの国で売っている。加工するのも売っているのもエレンが声をかけた領民たちだ。
ステファンは領民思いのエレンを尊敬している。エレンが婚約した時もお似合いの二人だと祝福していた。しかしサムエルのことを思い出すと今もはらわたが煮える。
あの男はエレン様の何が不満だったのか。メラニーは男と見ればやたら色気を振りまく女で、ボウエン家に何ヶ月も滞在すると知った時から嫌な予感はしていた。
エレン様とサムエルは五年間も婚約していたのに、たった三ヶ月の滞在でメラニーはサムエルを奪ってしまった。
森から帰る時に耳にしてしまったあの会話を、今も時折り思い出す。あの下衆野郎を殺してもいいものなら、わざと切れ味の悪い錆びた剣を選んで斬り捨ててやるのに、と思う。
「どうしたの?怖い顔をしてるわよ」
振り返ったエレン様が心配そうだ。
「ムカデをどう始末したものかと考えておりました」
「ムカデに噛まれると酷く痛いものね。体をいくつかに切ってしまうのが一番よ」
「次は必ずそうします」
ステファンは真面目な顔で返事をした。
♦︎
一方、ステファンの妹ハンナは海岸に降りて貝を集めていた。兄妹は海辺の育ちだから貝を獲るのも手慣れたものだ。
以前、実家の商会の経営が思わしくなかった時、山小屋に来るたびに商会を利用していたエレン様に助けてもらった。エレン様がまだ少女の頃だ。
「使い慣れたこちらの商会がなくなったら私が不便になるから」
と奥様に口添えをしてくださったのだ。
すると奥様は商会に出資してくれた上に自分たち兄妹を使用人として雇い入れてくださった。育ち盛り食べ盛りの二人が家から抜けて給金も頂けるのだから、両親はどれだけ助かったか。
本当なら侯爵家の奥で働くなんて夢のまた夢なのに、兄と私はエレン様付きとなってきれいな制服を貸与され、兄は剣の訓練を、自分は侍女としての教育を施され、十分な食事も与えられた。
しかも商会が持ち直した頃に「親の仕事を手伝いたいならここを辞めてもいい」とまで言ってくださった。私も兄もこちらに残ることを即答したっけ。商会は一番上の兄が継ぐから何の問題もない。
奥様もエレン様もいつも研究や実験をなさっている。貴族の女性はドレスを日に何度も着替えて刺繍をしている人たちだと思っていたが、お二人ともたいそう活発だ。
「だって、人間の身体は使わないとどんどん衰えるのよ」
奥様はよくそう仰っている。
今夜は二枚貝の身を取り出してバジルとニンニクを合わせて炒めよう。エレン様は料理を手伝いたがるが、白く細いきれいな手指に傷がつかないかと心配になる。お嬢様はいつも「傷がついたら塗り薬の効果を自分で確かめられるわ」と笑うが。
ずっしりと重くなった籠の中身に満足して、ハンナは海岸から山小屋に向かって坂道を登る。砂抜き用の海水は桶に汲んで抱きかかえて帰ることにした。
兄は……あの人に心底怒っていた。自分もあの人を憎んだが、エレン様を宝物のように大切にお守りしている兄の気持ちを考えるとつらい。
エレン様に忠実に献身的にお仕えしている兄の目の前で、あの人はメラニーなんかに愛を囁いたのだ。
あの時、自分はいつでも兄に抱きついて止める準備をしていた。もしかしたら兄があの人を殴り倒してしまうのではないかと恐れたからだ。
しかし兄は顔色ひとつ変えずに静かにエレン様の後ろに付いて引き返した。どれだけ悔しかったか。
「それにしてもケイン様って、何者だったのかしら」
エレン様は治療と傷の観察以外でケイン様に近寄らなかったし、兄もエレン様とケイン様が二人きりにならないよう注意していた。
「ケイン様は怖いほど綺麗なお顔だったわ。そして手当てをしている時のエレン様に見とれていたような気もするのよね」
そこで思わずブルブルと頭を振って自分の考えを打ち消した。弓矢で射られるような人は問題外だ。大人しそうに見えたあの人でさえあんな裏切りをしたのだから。
「矢で射られるって。いったい何をしたのかしら」
育ちが良さそうな人だったから、犯罪者ってわけではないだろうが。エレン様は深く眠ったケイン様から離れたあと、『あの人に使われた毒はね、相手を長く苦しめてから確実に殺したい時に使われるものなの』と悲しそうに仰っていた。
毒を使われて苦しんでいる人を見るとき、お嬢様はいつも泣きそうなお顔になる。
山小屋はもうすぐだ。エレン様の好物の貝のバジル炒めを美味しく作ろう。