4 デボックの山小屋へ
「待ちなさいエレン。お話があるから私の部屋にいらっしゃい」
「……はい、お母様」
さっさと部屋に戻るつもりだったけれど、そのまま二人で母の部屋へ向かった。最高権力者には逆らえない。
母はソファーに腰を下ろし、立っている私に声をかけた。
「で?あなたは誰に噂をばら撒かせたの?」
「…………ダンユース夫人、です」
噂の出どころが私だとばれていた。
「なるほどね。夫人はコーレイン家を嫌っているし噂を撒く先もたくさん持ってるものね。それであなたはこの先どうするの?」
「ひと月ほど気分転換にデボックの山小屋に行こうと思っています。その後は結婚のお相手を探すつもりです」
「そう。山は気分転換にはいいかもしれないわね。エレン?ここにいらっしゃい」
母が自分の膝をポンポンと叩く。昔ならそこに乗ったけど今は私の方が大きい。なので床に座って頭を膝に乗せた。母は私の髪を撫でてくれる。
「大丈夫?」
「結婚する前で良かったです」
「それは確かにそうね。メラニーの妊娠は本当かしら」
「おそらく嘘です。下働きのリズに確認しましたが、メラニーは十日前まで月のものが来ていたそうです。でも、問題はそこじゃありませんから」
「ああ、あなたがそんなに冷静だと母親としては少々切ないわ。いいのよ、こんな時くらい取り乱しても」
私はゆっくり頭を振った。
「もう、取り乱す気力も残ってないのです」
一瞬動きを止めた母が、私の頭や背中をさすりながら独り言のように話を始めた。
「お金に困ってる伯爵家の次男で、温厚で、あなたに好意を持ってくれて。サムエルはあなたが結婚して自由に薬の研究をするには文句なしの相手だと思ったけれど、それがうちのお金で浮気相手と親子水入らずって」
珍しく母が悲しそうな声だった。
「お母様、サムエルを殺しませんよね?」
「まさか。私が手を下さなくても、これから彼は死ぬよりつらい思いをするわ。あんな男だと気づかなかったのは私の手落ちよ。ごめんなさいエレン」
「お母様が謝ることではありません。私にもきっと何か原因があるんです」
「いいえ。あなたは悪くないわ。そんなふうに思ってはだめよ。それにしてもメラニーをどうしようかしら」
母の手は優しく私を撫でている。
「放置してくださればそれで十分です」
「そう?ずいぶん寛大だこと」
「おそらくメラニーは借金だらけのサムエルとは別れるでしょうし、もう社交界で新たに結婚相手を見つけるのも当分は無理でしょうから。正直言うと、私はメラニーはこの家にいなければどうでもいいのです。私は……サムエルにとことんがっかりしただけですから」
「そう。あなたは冷静で優しい子ね。それが女性としても薬師としてもいい方に働くといいのだけど」
母の言葉は願いのようにも心配のようにも聞こえた。
母は特級の薬師だ。
母の血筋は薬の知識と技術をできうる限り女系相続で代々伝えている。うちは特に毒の扱いに詳しい流派だ。母を通して先祖の知識は私に授けられつつある。
私は三姉妹で、三人全員が基礎的な知識は教わった。けれど、深い知識と技術を最後まで学べるのは、伝統に従い私一人だけだ。
母が末娘の私を選んだ理由は三つあった。ひとつは薬への関心の強さと理解の深さ。もうひとつは解毒能力の高さ。最後は情緒の安定だ。
次女のマールお姉様は感情の起伏が激しく、毒薬の知識を持たせれば自ら破滅する可能性が高いと判断されて選ばれなかった。マールお姉様が地味な日常使いの薬に関心が薄かったのも選ばれなかった理由のひとつかもしれない。
長女のヘルダお姉様は温厚で知識欲も旺盛だったが、いかんせん解毒能力が私より低かった。毒に耐性をつける訓練ではいつも一番苦しんでいた。
解毒剤を作るには毒の性質、作り方、管理法などを知らねばならず、毒に触れることが多くなる。毒物を分解する能力と対毒耐性の強さは命と直結する条件だ。
世の人々が実際に求める薬は火傷や傷の薬、腹下しの薬や熱冷ましの薬で、解毒薬の出番はほとんどない。それでも私は解毒薬を作るのが好きだ。毒に苦しむ人が私の解毒薬で回復することにやり甲斐を感じる。
それに、動植物が身を守るために作り出す毒の不思議さ、作用の多様性に私は魅せられている。だから毒について深く教わることができる後継者の立場はなんとしても守りたいのだ。
「お母様、山小屋にハンナとステファンの三人で行ってもいいですか?」
「いいわよ。のんびり羽を伸ばすといいわ。行きと帰りだけは護衛を増やしなさいね」
「はい」
「それと……エレンはお父様が『それでも結婚しなさい』と言うのを恐れたのね?だから先に噂をばら撒かせたのでしょう?」
何もかも、読まれていた。
「お父様を信じていないわけではないのですけれど。ごめんなさい、お母様」
「いいのよ。商才のない友人に延々と借金を負わせ続けることを、お父様も悩んでいたのよ。サムエルとあなたのためならそれでもいいと思っていたようだけど、それはもはや友情の域を超えることだったから……」
そうか。父は父で悩んでいたのか。
翌朝の朝食時、父は目の下にクマができていたし、顔色も悪かった。
「お父様、回復薬をお出ししましょうか」
「ああ、頼むよ」
薬箪笥からいくつかの材料を取り出して薬小鉢で全部が粉になるまでよく砕き、蜂蜜と混ぜ合わせて少量のお湯で溶いてカップに注いだ。
「ありがとう。エレンの作るこれは飲みやすいから助かるよ」
お父様がそう言って一気に飲み干した。本当は不味いのね。優しいお父様。
「デボックでゆっくりするといい。次の婚約者は必ず間違いの無い男を選んでおくよ」
「お父様……今度は自分で探してみたいのですが」
「お前は知り合いが少ないだろう」
「じゃあ、あなたとエレンの両方で探してみればいいんじゃない?」
「しかし……」
「あなた。エレンの気力が出るならそれでいいじゃない」
「そ、そうだなフランカ」
父は萎れていた。メラニーもサムエルも父の友人の子供だ。良かれと思って親切にした挙句がこの有様なので気に病んでいるのだろうか。
「お父様、何があってもお父様を愛してます」
「エレン……すまない。本当にすまないことをした」
父が額に手を当てて俯いてしまった。
♦︎
私とハンナは今、馬車の中だ。ステファンは御者を務めている。
「メラニーはあれからどうしたのかしら」
「夜明けと共にお屋敷を出ました。実家に向かったそうですよ。おなかが大きくなったらなんて言い訳するつもりですかね」
私は窓の外を見たまま苦笑してハンナに教える。
「彼女は妊娠していないのよ。おそらくサムエルとも別れるわ。サムエルは騙されたの」
「えっ。お嬢様はそれで良いのですか?」
「私がもう、サムエルを受け入れられないのよ」
ハンナは驚いている。仕切りの小窓を開けてあるから前を向いて手綱を取っているステファンにも聞こえているだろうけど、この二人は私にとって家族同然だから気にしない。
「そうですか。お嬢様が損をしたようで悔しゅうございます」
「ううん。損はしてないわ。サムエルと別れたことで私の人生はきっといい方向に進むのよ」
小窓の向こうのステファンが小さく頷いていた。
デボックの山小屋に着いたのは翌日だ。山小屋は海に面した山のふもとに建てられていて、前方に青い海、背後には深い森という素晴らしい環境だ。山小屋と呼んでいるけど、建物はそこそこ大きい。
風が強い日だった。海には大きな船が見える。船は風と高波を避けて湾の内側を航行していた。
風は次第に強くなり、その夜、私たちは風の唸りを聞きながら夕食を食べた。
外の物音を最初に聞きつけたのはステファンだった。