36 新たな一枚
父の手の甲で実験するのと並行してウルエラの両頬の頬骨の上にある茶色のシミにも薬を塗っている。私が細筆に薬液をつけて丁寧に塗っているのだけど、ウルエラの顔は真剣だ。
「何を塗っても効かなかったのです。これは最後の頼みの綱ですよ」
「少しでも違和感があったらすぐに教えてね?」
「合点承知でございます」
ウルエラの気迫がすごい。
筆でペタペタを続けること二十日目。
十九日目まではほとんど変化はなかった。なのにいま、シミは……。
「薄くなってますよね?エレン様!」
「なってるわね」
「実はですね、エレン様」
「なに?なに?何か違和感があったの?」
「昨夜、寝る前に化粧を落としていましたら、このシミの部分を軽くこすった時に垢が落ちるようにボロボロと皮膚が細かく剥がれてシミが一気に薄くなったのです!」
へええ……。どういう仕組みだろうか。作った私が驚くわ。一方の父はと言うとシミが消えた後の手の甲に塗り続けても変化なし。
続けて使っても安全なんじゃない?これ。
シミ消し薬として使えるんじゃない?
そこでやっと特級薬師である母に報告した。
父はひと月塗り続けても色素の脱落などがないこと。手の甲のシミはきれいに消えたこと。ウルエラの頬骨の上のシミが二十日目にして剥落して薄くなったこと。
母は大きな母用の書類机の表面をジッと見つめたまま私の報告を聞いていたけれど、全部を聞き終わると少し口を開けて呆れたような顔をしながら私を見た。
「エレン。どうして今まで黙ってたの?それは薬類記録簿に残すほどの大発見よ?」
「健康な部分の色素の脱落などが起きないかを観察していたものですから。それにこの薬がそんなに優れたものとは思わず。だって狙って作ったのではなく、元はと言えば疲労回復薬なんですもの」
「え?あの松の葉をメインに作った飲み薬?」
「はい。お父様がそれを何滴か手の甲のシミに塗ったところからシミ消しの効果があるとわかったのです」
「ああ、飲んだりしてもったいないことをしたわ。あれだけあれば相当塗れたわね」
「お母様?」
「もう一度原材料を言ってみて」
母が私の出した書類を見ながら確認する。
「主原材料は銀葉松の葉、毒芙蓉、白ヨモギ、蛇舌草、丸葉カエデ、白樺です。それに微量の火バッタの消化液」
「なるほどね。毒芙蓉は皮膚を爛れさせるけれど、この組み合わせだと皮膚の代謝を促すわけね。他は疲労回復として知られている物ばかりだから、シミを消すきっかけを作るのは毒芙蓉だわね」
「はい、おそらく。毒芙蓉の汁を飲むと腸の働きが活発になって、それ単体だと酷い下痢になりますが、作用を弱めれば腸の中をきれいにするにはいいかと組み合わせてみたんです。そしてこの組み合わせで肌に塗るとシミの部分だけを剥がす作用があるようです」
「私は最近その手の新しい組み合わせを試すことから遠ざかっていたけど。薬師として悔しいわ。そろそろあなたに特級薬師の立場を譲って引退すべきかもね」
「え……だって私はまだ結婚もしてなければ子供もいないんですから、まだそんな」
「そろそろってこと。今すぐではないけれど。とにかく、このシミ消しの働きは驚くべきものだと思う。顔のシミって命には関係ないけど、その人の人生には大きな影響があるのよ。小さな憂いも毎日積み重ねればその人から活力を奪うわ。活力は健康にも寿命にも影響する。その憂いを消してやれる薬は貴重なのよ」
しばらくして貴族の間で「ボウエン家に通っている平民が増えた」「通っている平民の顔のシミが綺麗さっぱり消えた」「フランカ夫人やエレン嬢と繋がりがある人だけが治療してもらえるらしい」という噂が広まった。
実際はボウエン家の使用人が「報酬付きでシミ消し薬の治験に参加する人を募集している。万が一肌に害が出た場合は手厚く補償する」という口コミで集めた者たちの大半が平民だっただけだ。
被験者の大半が平民だったにも関わらず、その効果の高さに噂は広がり、裕福な商人の妻たちも被験者になりたがった。貴族に噂が広まったのはそのあたりからだろうか。
ここ最近は社交界にたまに顔を出すようになったエレンは、ホールに入るとすぐに夫人たちに囲まれるようになった。厚く化粧をしてシミを隠していた夫人たちはどうすれば診てもらえるのかを聞き出すのに必死だ。
「あの薬はまだ開発途中なんです。今、試してくださっている方々は、なんらかの副作用が出るかもしれないのを覚悟の上で治験を受けているのです。そのうち安全だと確実にわかるようになれば売り出しますので」
エレンは冷や汗をかきつつ説明する羽目になった。自分自身はまだシミがないのでシミ消し薬を求める中年女性の迫力に恐れ慄く。
シミ消し薬の効果は高く、三ヶ月以上経ても副作用が出た被験者はいなかった。最近では男性貴族だけの集まりにルドルフ侯爵と共に参加するステファンにまで質問の雨が降り注ぐ。たいていは妻に「なんとかシミ消し薬を手に入れて欲しい」とせっつかれている夫たちだ。
「エレン。そちらの結果はどうなっているの?」
「三ヶ月塗り続けた方の肌の色が一段と白くなってますが、まだらに色素が抜けることはありません」
「私も塗り続けてるけど、色白になる上に、まるで子供の肌みたいにキメが細かくなってきてるのよ」
「えっ。お母様、ご自分で?」
「大丈夫そうだから自分でも試してみたの」
うふふ、と微笑む夫人は鏡に映る自分の肌に満足げだ。
祖母は震え熱の特効薬の開発で巨万の富を手に入れた。娘だったフランカ夫人はそれを引き継ぎ薬の安定した開発と改良に力を注いだ。そしてエレンはシミを消し肌質の改善に劇的な効果を発揮する薬を完成させた。世間は「さすがは特級薬師の血筋」と感心した。
実際はステファンの疲労回復に、と作り始めた薬だったが、開発は思わぬ形でエレンに新たな富を運んでくることになった。
シミ消し薬は「シミ消し用の薬」と「普段使いの美白化粧水」として濃さを調節して製品化され、国内はもとより他国への輸出品として高価な値段にも関わらず引く手数多の物となっていった。
フランカ夫人が管理する三百年分の分厚い記録簿に新しい薬の記録が一枚書き加えられたのはそれからすぐのことである。






