33 メラニーの猫
「ボウエン家だけは嫌よ!」
「そんなことを言ったってメラニーや、他に猫を診てくれる所はないのだから仕方ないだろう?」
「嫌ったら嫌!」
そう言ってメラニーは地団駄を踏んだ。その勢いに驚いた猫は部屋の隅に隠れてまた吐いた。
「ああ、メヌエット、可哀想に。いったいどうしたと言うの」
今のメラニーにはサムエルを騙してエレンから婚約者を奪った時の勢いは無い。飼い猫の不調に悩む一人の愛猫家だ。
「だから。昔のことはもう今更仕方ないだろう。何か言われたら頭を下げるしかないよ」
「だって」
そう言いかけて飼い猫の様子を見れば、調子悪そうに丸まっている。昨日から与えた物は一切口をつけていない。
「ああもう。わかったわよ。行くわよ。あなたも一緒に来てよね」
「もちろんさメラニー」
そうやってメラニーを甘やかすのは、でっぷりと肉をつけた五十代の商人である。メラニーはボウエン家を追い出されて実家に戻ったものの親に事情を知られて激怒され、わずかなお金と共に家を追い出された。妊娠してないことを白状しても許されなかった。
「以後お前は我が家とは無関係だ。お前の弟妹に迷惑がかかる。今後は絶対に我が家の名前を使うな」
仕方なくメラニーは酒場の女給をしてどうにか生き延びていたが、常連客の愛妾となってその日暮らしから抜け出した。
最初はサムエルを頼ろうとしたが、手紙を出しても返事もなく、噂で聞けば実家の伯爵家は破産して領地と屋敷を国に返して一家は平民になり、親戚を頼って暮らしているらしい。
自分をこんな目に遭わせたボウエン家に縋りたくないが、猫の治療をしてくれるのはあの家しかない。猫は元々は野良猫で、その日暮らしをしていた頃のメラニーを癒してくれた戦友のような存在だった。わずかな食べ物を分け与えてるうちにすっかりメラニーに懐いたのである。
「ごめん、メヌエット。これから嫌な家に行くけど、そこなら治してくれるかもしれないから。我慢してね」
戦争も終わり街は賑やかだ。男爵家の娘の時には夢と希望に溢れているように見えた王都の華やかさも、商人の愛妾となった今のメラニーにはそれほど心を浮き立たせてくれない。自分の人生は今以上に良くはならないことはわかっていた。
そこそこの贅沢、ずっと年上の太った男。全てを諦めればそれなりに居心地は良かった。男は自分を大切にしてくれる。贅沢を言える立場でないことは理解していた。
やがて馬車はボウエン家に着いた。男が使用人に話を通していたらしく、新しく建てられたらしい別棟にすぐに案内された。
猫はメラニーの腕の中だ。男に頼みたかったが、メラニーだけに抱かせる猫なので仕方なく覚悟を決めて別棟に入った。
「あらっ」
小さく声を漏らしたのはエレン付きの侍女だった。入ってきたのがメラニーとわかると両手を腰に当てて睨みつけてくる。
どうしようか。帰ろうか。いやでも、この子が、と迷っていると奥からエレンが出てきた。
「メラニー……」
「わ、私だって来たくなかったけど、この子が、この子が、具合悪いんだもの」
「どうぞ。診るわ」
そう言ってエレンは見知らぬ少女と二人でメヌエットを診察台に乗せて全身を触った。人見知りするメヌエットが大人しく触らせているのにメラニーは驚いた。助けてくれる人だと猫にはわかるのだろうか。
しばらくして白いエプロンを着た少女が猫をメラニーに返した。エレンが洗った手を拭きながら後ろからついて来る。
「どうだったの?」
「妊娠しているわ。今の体調不良はそのせいだと思う。少ししたらまた食べるようになるはずよ」
「妊娠……」
そういえばしばらく前に二日続けて帰ってこないことがあった。あの時か。
「そう。病気じゃないのね」
メラニーはホッとした。
「おそらく子猫は一匹ではないから、子猫の貰い手を探しておくといいかもしれないわね。じゃ」
エレンは淡々と告げて後ろを向いて歩き出した。
「待ってよ」
「猫はちゃんと診たわ。まだ何か用かしら」
エレンは無表情に自分を見返している。あの侍女もずっと睨んでいて腹立たしかった。でも、今、何かを言わねば、とメラニーは焦った。
「別に何も言わなくてもいいわよ。少なくともあなたは猫の病気を心配するだけの気持ちがある人なんだとわかって良かったわ」
エレンに気迫負けしたままなのは悔しかった。でも……と逡巡しているとエレンがまた口を開いた。
「今度ステファンが男爵になるの。私はステファンと結婚するわ」
「えっ」
ステファンは最初から自分を嫌っていた護衛の男だ。見た目は良い男だったがどんなに愛想を振りまいても嫌そうな顔で自分を見る男だった。
「そう。お似合いね。おめでとう」
「ありがとう。あなたもお幸せにね」
そう言ってエレンは今度こそ後ろを振り向かなかった。
♦︎
「はぁぁぁ」
診察室の椅子に腰掛けてエレンは盛大にため息をついた。
「あの人と何かあったんですか?」
「ああ、そっか、ノーラは知らないんだったわね。あの人は私の前の婚約者を奪った人」
「ええっ。そんな人の猫を?」
「猫には罪はないもの。でも、良かったわ。どうしようもない人だと思ってたけど、猫を可愛がる気持ちはあったんだと思うと、なんとなく許せる気がするの。不思議だけど」
「ステファン様もいますものね!」
「ふふ。そうね。自分が幸せだと人間は大らかになれるものなのね」
その後、メラニーが来ていたと知らされたステファンは大いに腹を立てたが、
「もういいのよ。私にはあなたがいるもの」
とエレンに微笑まれると怒りのやり場がなくなるステファンだった。
「エレン様、あなたは甘い。メラニーのような人間はそこを嗅ぎ分けるんですよ?」
「甘くなったのはステファン、あなたのおかげよ」
エレンは心に刺さっていた棘がやっと抜けたような気持ちだった。とことん嫌いな相手であっても、誰かを憎むよりは憎まない方が楽に息ができるのだ。ステファンの手を取り自分の頬に当てた。
「自分が幸せだと、人を憎む気持ちは消えるものなのね」
「私はエレン様のそういうサッパリしてるところが大好きですよ。心配ではありますけどね」
ステファンはそう言って困ったような笑顔になった。
大切な人に必要とされて大好きと言われることがどれだけ幸せか。それを忘れちゃダメ、それに慣れてはダメ、とエレンは何度も思った。






