32 ドロテア様とワイン
もともとお酒の好きな人なのだろう。ドロテア様は最初は恐る恐るだけどワインを飲んだ。ロイ様はその様子をじっと見ている。
「美味しい……。こんなに美味しいワインは飲んだことがないと思うわ」
そう言ってドロテア様はグラスの中のワインをコクコクと飲み干した。
「それはようございました。さあ、ティールームに移動しておしゃべりしながら続きを楽しみましょう?ケイン様もご一緒に」
「ええ。そうさせてください」
結果から言うと、ケインの催眠術は、効いた。ドロテア夫人はワインを飲みながら楽しくおしゃべりをして笑い声をあげてご機嫌だった。事前に話を聞いていなければとても毒舌で息子の婚約者を追い詰める人には見えなかった。
途中でロイ様が泣くのを堪えながらケインの両手を握って何度も頭を下げ
「ありがとうございます。ありがとうございます」
と繰り返していた。夫人は息子のその様子を見て困ったような顔で見ながらご自身も頭を下げた。泥酔時の記憶がないって本当なのね。
ロイ様は母親の肩を抱いて話しかけた。
「母さん、楽しいお酒で良かったね。みなさんのおかげだね」
「ええ、ええ、そうね。なんだか楽しくて。もうお酒を飲んでも大丈夫なのかしらね」
「ええ、エレン様の薬を飲んでいる限り、楽しくお酒を飲めますよ」
ケインが笑顔で答えた。夫人は最後まで穏やかに楽しそうにワインを飲んでいた。泥酔するような飲み方にはならなかった。ロイ様は気が抜けたのか泣き笑いをしながら「良かった」を繰り返していた。
やがてロイ様とドロテア夫人が帰った。帰り際、ロイ様は本当に嬉しそうだった。あの親子に幸あれ。
「ねえ、ケイン。私の薬を条件にする必要があったのかしら。催眠術が効いているなら胃腸薬を飲まなくても平気なのではないかしら」
「いいや。胃腸薬は必要さ。ドロテア夫人の心の傷は未だに心に残っているからね。記憶を消すことはできない。催眠術で上からペンキを塗ったように隠しているだけなんだ」
「ペンキ?」
「ペンキと同じように催眠術は時間と共にいつかは剥げる。君の薬を飲むたびにペンキを上塗りするように僕の催眠術が発動する方がいいんだよ」
「なるほど、そういうものなのね。すごいわケイン。どうやって催眠術を学んだの?」
「僕を産んだ母がね、一度だけ船便で僕に贈り物をしてくれた。山のようにたくさんの本を送ってくれたんだ。全部ガラバレス語の本だった。子供向けから大人が読むような難しい本まで。思いつきか気まぐれで送ったのかも。でもある時、父の留守中に我が家に来た親戚がそれを庭で燃やしたんだ。ガラバレスの本など不要だって。大きな焚き火みたいだったよ。一冊だけ焼け残ったのが催眠術の本だった。数学や文学、医学の本もたくさんあったのだけど」
「それは……つらいことを聞いてごめんなさい」
「いいんだよ。僕は小さな頃から僕を産み捨てて行った母を憎んでいたけれど、その本はどうしても捨てられなかった。ガラバレス語を学んでひたすら繰り返し読んだよ。すっかり暗記するまで読んだ。最初で最後の母からのプレゼントだったからね。そして専門家の教えを請い、実践も学んだんだ」
「そう」
「僕はガラバレスの王になる。間違いなく傀儡政権だし、また命を狙われるかもしれないけど、僕に居るべき場所がやっとできたんだ。両国の役に立てるよう頑張るさ」
「ケイン、私が作ることができる解毒薬を全種類作って渡すわ。古くなったら新しいのを送る。だから絶対に長生きしていい王様になってよ」
「ああ。そのつもりだよ。もっとも、解毒薬が必要にならないことを願ってるけどね」
ケインは「いつか落ち着いたらガラバレスに遊びに来てよ」と笑って、何種類もの解毒薬の包みを抱えて我が家から去った。母はしんみりしていた。
「あの解毒薬が無駄になることを祈るわ」
「ええ、お母様。私もそう思います」
しみじみとした会話をしながら私と母はワインをお代わりした。
「私たちは酔わないからこんな高いのを飲んでも無駄よね」
「そうですね。飲めば美味しいのですけどね」
「ステファンはワインを飲むかしら」
「飲むと思いますよ」
「いいワインを何本か運ばせるから二人で飲んだら?」
「で、エレン様はなぜ私にワインを勧めるのです?しかもこんな高級なものを」
「ステファンが酔ったところを見たことがないなぁと思ったのよ」
「私を酔わせてどうしようっていうんですか」
「どうって……。どうなるのかなーって」
「どうもなりませんよ。少しヘラヘラするくらいです。エレン様ほどではありませんが、私も酒には強いのです」
「なんだ。そうなのね。ホッとしたようなつまらないような」
いつも生真面目なステファンがヘラヘラしてるところを見てみたかった。二人で誰もいないダイニングルームで夜更けの宴会をしていた。ステファンにどんどんワインを注いだ。
「ワインを飲むのは実に久しぶりです」
「ずっと戦争に行ってたし怪我をしたしね」
ワインを二人で(主にステファンが)二本空けて、三本目を開けたところでステファンがクスクスと笑い始めた。おお、酔ってきたわとワクワクしたのだが。
「おや?なんだか話し声がすると思ったらお前たちか。私も仲間に入れてくれるかい?」
父がいそいそと入って来た。とたんにシュッと居住まいを正すステファン。
えええー。いい雰囲気だったしステファンも酔い始めたところなのに!
「お父様はほんと大らかよね」
「なんだい?それは褒めてるのかい?それともけなしてるのかい?」
「知りません」
軽い親子喧嘩の間に入ってステファンが困っていた。これじゃ気の毒か。
「ごめんなさいステファン、今度こそあのお店で二人で飲みましょう」
「ええ。ぜひ」
「エレンや。私は誘ってもらえないのかい?」
「……」
やっぱり父は鈍感なんだと思う。