3 愛があるから乗り切れるわよ
「エレン、座りなさい。大切な話がある」
「はい、お父様」
室内は静まりかえっていて、春らしく小さく焚かれた暖炉の火のパチパチ言う音がはっきり聞こえる。私はコーレイン親子の向かいの席に座った。サムエルは私から視線を外したまま立ち上がり、いきなり頭を下げた。
「エレン、すまない!」
「はい?」
すると今度はサムエルのお父様も立ち上がって頭を下げた。
「エレン、うちのサムエルが愚かしい間違いを犯した。申し開きもできない。無理を承知でお願いする。どうか愚かなサムエルを許してやってほしい」
へえ。
ダンユース夫人がサムエルの父親に直で知らせるわけはないから、近しい誰かから知らされてサムエルに問いただしたのだろうけど。彼はどこまで白状したのかしら。謝れば許してもらえそうなことまでかしら。
「ベンジャミン、まずはエレンに説明するから」
お父様が硬い声でコーレイン親子を座らせた。母の方を見ると斜め上の壁を眺めている。整った白い顔は『ウンザリ』と大書きしてあるかのような表情だ。
一方のお父様は私に死病の宣告でもするかのように苦しそうなお顔をなさっている。
「先ほどノルデン侯爵が知らせに来てくれたのだが、サムエルはメラニーと……非常に親しい関係にあるという噂が流れているそうだ」
「そう、ですか。でも、それならなぜここに当人のメラニーがいないのでしょう?メラニーにも言い分はあるかもしれません。同席させるべきですわ」
するとウンザリ顔のお母様が、表情は変えずによく通る声で参加した。
「ルドルフ、わたくしもそれに賛成よ」
「そうか。お前たちがそう望むならメラニーを呼ぶことにしよう」
やがてメラニーが下を向いて応接室に入ってきた。狼狽えてもいないし泣いてもいない。私、彼女を見誤っていたわ。
「メラニー、座りなさい。お前とサムエルが大変に親しい関係だという話を外から聞いたのだが?」
メラニーはチラリとサムエルを見たが、サムエルはテーブル上の自分の両手を見ているだけで、彼女の視線に気づかない。いえ、気づきたくないのかしら。
するとメラニーはキッと顔を上げてサムエルからお父様に視線を移し、強さの滲む声で返事をした。
「はい。私とサムエル様は愛し合っております。エレン様の結婚式が二週間後だということは承知しております。本当に申し訳ないことと思っております。でも、私たちは愛し合っているのです」
「ふーっ」とお父様がため息をつく。サムエルは何も言わない。サムエルのお父様は目を剥いてメラニーを睨んでいる。
「わたくしがお話をしても?」
皆の了承を得て私は話し出した。
「実はわたくし、先ほど森からの帰り道でお二人が会話している所に出くわしてしまいました。サムエルはメラニーを心から愛しているそうです、お父様」
「くっ!」
目を閉じて無念そうな声を漏らしたのはサムエルの父、コーレイン伯爵だ。サムエルはビクッとしたけど私の目を見る勇気は無いようだ。
「まずはエレン、お前はどうしたい?」
「仕方がありませんわよ。サムエルは私よりメラニーを選んだのですもの。私が身を引くしかないでしょう?」
「えっ?」という顔でサムエルが顔を上げて私を見る。あぁ、私が自分を諦めないと思っていたのね。
「ノルデン伯父様の耳に入ったように、他の貴族の方々の耳にもすぐに話は伝わるでしょう。結婚する前から相手を寝取られた惨めな妻になるわけには参りませんわ。我がボウエン侯爵家が侮られてしまいます。わたくしはしばらく心の傷を癒さなければなりませんが、サムエルには早くメラニーと結婚させてあげなければ気の毒よ。メラニーは、妊娠しているそうだから」
さらに下を向くサムエル。ひっそりと微笑むメラニー。
「お前はっ!」
コーレイン伯爵は妊娠の件をまだ知らなかったらしい。いきなりサムエルの襟首を掴んでガツッと顔を殴りつけた。
「きゃあっ!」と悲鳴をあげたのはメラニーだけだ。我が家は三人全員が冷めた目で親子の様子を眺めた。
「そういうことだから。仕方ないわよ。赤ちゃんに罪はないもの。おめでとう、サムエル、メラニー。二人でお幸せにね」
「エレン、お前は本当にそれでいいのか。仲の良い恋人同士だったではないか」
「だって、サムエルが本当に愛してるのはメラニーで、我が家が援助するお金で日当たりの良い部屋を借りて親子で暮らしたいそうよ。さすがにそれはどうかと思いますけど」
「なんだと……」
お父様の声が低い。長年の親友の息子とはいえ、さすがに腹に据えかねるものがあるのでしょうね。良かった、お父様がそう思ってくれて。
「だって、人生は何が起きるかわからないでしょう?もし私が誇りを捨ててサムエルと結婚したとして、私が子供を産む前に私に万が一のことがあったら?お父様が持たせてくれる私の持参金は、全部メラニーの産む子供のところに行ってしまうじゃありませんか。死んでも死にきれないとはこのことです」
そこでひと息ついて一番大切なことを口にする。
「それに、さすがにあんな会話を聞いてしまっては、もう結婚しようなんて気持ちは消えてしまいました。サムエルには小指の先ほどの未練もありません」
私の言葉を聞いてベンジャミン・コーレイン伯爵が父に懇願した。
「ルドルフ、済まない!愚かな息子を育てたのは私の責任だ。だが、今君に見放されたら我が家は破産だ。どうか我が家を見捨てないでくれ!」
「え?」
小さな呟きはメラニーだ。この人、ここまでコーレイン伯爵家が困窮してるとは知らなかったの?我が家の援助がないと立ち行かないってサムエルが言ってたでしょ?盛り上がってて聴き損ねた?
お父様が目を細めて長年の友人に答える。
「ああ、私もできることなら君を助けたい。だが、これはもう私と君の間だけの話ではないんだ。我がボウエン侯爵家一族とコーレイン伯爵家の問題なんだよ。今まで君の家に援助していたものについては約束通り利子はつけないよ。だが返してもらおう。今後の資金援助も結婚が破談になる以上、取りやめにする」
「エレン!君から父上に頼んでくれないか?生まれてくる子供には何の罪もないんだ、どうか資金援助を……」
サムエルの声が尻すぼみになったのはお母様がゆっくり笑顔で立ち上がったからだろう。お母様は美しい顔に作り物の笑顔を貼りつけているけれど、それはそれは恐ろしい目つきだった。
「サムエル?子供でもあなたの言い分がおかしなことに気づくわね。不貞を働いてエレンの心と経歴に大きな傷をつけたけれど、それでも僕の不貞でできた子供のために親切にしてくださいって、通る話だと本気で思っているの?」
返事を待たずに今度は私がお母様の後に続ける。
「そういうことだからメラニー、我が家への借金は、子供を育てながらみんなで頑張って返してね。愛があるもの乗り切れるわよ。それと、さすがに私もあなたの顔を見るのはつらいから、明日の朝にはこの家から出て行ってくれるかしら。お父様があなたのお父上に詳しい事情を連絡なさるだろうから、そこは安心していいわ」
「そんな……」
「だって、社交界への参加はもう不要でしょう?あなたが夫と子供を一度に手に入れた話は、明日にはすっかり広まっているはずだわ。社交界でお相手を見つける必要は無くなったし、目的を達成できて良かったわね。おめでとう。ではサムエル、メラニー、ごきげんよう」
メラニーが私を睨んでいる。好きなだけ睨めばいい。『恩知らず』と『浅はか』はあなたのためにある言葉よ。
私は一番美しく見える笑顔で挨拶をして、部屋を後にしようとして母に止められた。