1 うっかり婚約者の不貞の現場を通りかかる
「エレン様、とてもお美しゅうございますよ」
「ありがとう、ハンナ」
真っ白なドレスは薄いレースを何重にも重ねて裾を長く引くデザインだ。鎖骨のあたりでふんわりと開いた襟は大きな花のようで、私の控えめな胸を上手にカバーして華やかさを醸し出している。栗色の髪はゆるく遊ばせて顔のラインを飾っている。
「白い花の精みたいですよ。サムエル様がご覧になったら惚れ直されてしまいますね」
「だといいんだけど」
「ブーケはエレン様の目の色と同じ紫スミレをメインに組んでありますから」
私は今、二週間後の結婚式に向けてウエディングドレスのサイズ確認をしている。サムエル・コーレインは父親同士が決めた婚約者だけれど、私を愛してくれる優しい婚約者だ。
「私、いい奥さんになるわ。そしてサムエルのために幸せな家庭を作るつもりよ」
「エレン様。本当にようございました」
侍女のハンナが目を潤ませている。今まで私はハンナにつらい時をどれだけ救われてきたことか。ありがとうハンナ、と心から思う。
サイズの最終確認が終わり、楽な服装に着替えた私はハンナと護衛のステファンを連れて屋敷の隣に続く森に向かった。
動植物の観察と研究は実益を兼ねた私の趣味だ。森に生きる動植物をスケッチして色を塗り、日時と場所を記録する。採取もする。記録した画帳は既に四十冊はあるだろうか。
更にそれらの効能などを調べて記録し、彩色した植物画と二枚ひと組にして綴じている。たくさん集まったそれは今ではちょっとした植物図鑑だ。
森の生き物たちは生き延びて子孫繁栄のために実に様々な方法を生み出している。そこが面白い。
そろそろサムエルが来る時間だ。森の空気と植物に癒されて帰る時、いつもは通らないガゼボに向かう道を選んだ。今頃はガゼボに絡むツタの新緑が美しかろうと思い出したからだ。
人の声に気づいたのはガゼボがチラリと見えた頃。泣きそうな女性の声とボソボソ話す男性の声が聞こえて立ち止まった。護衛のステファンを振り返り小声で話しかけた。
「修羅場かしら」
「そのようですね。どうなさいますか」
「戻りましょうか。顔を合わせたら気まずくなりそう」
ここで修羅場を演じるのならうちの使用人だろう。顔を合わせたらお互い気まずくなるだけだ。静かに引き返そうか、とした時だ。女性の思い詰めたような声が少し大きくなった。
「だって赤ちゃんができてしまったんですもの。私、どうすればいいのでしょう、サムエル様」
……え?
思わず聞き耳を立てた。
「メラニー泣かないで。君のことは心から愛している。だけど僕の家はボウエン家の援助無しでは立て直すのが難しい状況なんだ。だが、もちろん君は安心して子供を産めばいい。君と子供のために日当たりのいい居心地の良い部屋を用意するよ。そこでこれからも愛し合って暮らそう」
私の頭と体がどんどん冷えていく。
聞き間違いかと思ったけどやはりサムエルの声だ。そして相手はメラニーの声だ。父の知り合いの男爵の次女で、社交の季節だけ我が家に滞在している。私と同じ二十歳だ。
「本当ですか?サムエル様」
「本当だとも。愛してるよメラニー」
私の中の何かがぷつりと切れた。力の入らない足をどやしつけて動かし、そーっと来た道を戻り、家に向かった。情けなくて惨めで、後ろに続くステファンとハンナの顔を見ることができなかった。
だから私は背後のステファンが強い怒りのこもった目でサムエルの方を睨んでいたことに気づかなかった。それを知ったのは、だいぶ後のことだ。
(しっかりするのよ。やるべきことをやるの。泣いてる場合でも落ち込んでる場合でもないわ)
震える手で手すりにつかまりながら階段を上り、自分の部屋に戻って下働きのリズを呼んだ。
「忙しいところを悪いわねリズ。ちょっと聞きたいことがあるの」
そして少しの時間、二人だけで話をした後は外出用のドレスに着替えた。ハンナが心配そうだ。着替えを終えて急ぎ足で馬車に乗り込む。
「エレン様、どちらへ向かわれるのでしょう」
ステファンに尋ねられて短く答える。
「ダンユース家へ」
「かしこまりました」
ハンナとステファンと私を乗せて馬車は進む。早く手を打たなければと気が急く。
ダンユース家の夫人は私を可愛がってくれる方で、噂話が大好物だ。そしてサムエルの実家のコーレイン伯爵家と仲が悪い。夫人に今聞いたことを伝えれば、きっとたくさんの知り合いに話を撒き散らしてくれるだろう。
私の父はサムエルの父親と学園以来の親友だ。父は私に優しい方だけれど娘の私よりも長年の男の友情を優先しかねない。下手をすると
「愛人くらい受け入れる度量がなくてどうする。お前は妻になるんだぞ」
なんてことを言う可能性もある。
父の友情のために私の人生を台無しにされたらたまらない。結婚式までもう時間がないのだ。打てる手は打っておかなければ。
母はいつも「心から信頼できる人と愛のある結婚をなさい」と言ってくれていた。婚約中の私とサムエルの仲の良さを喜んでくれていた。
その母が自分の娘がとことん侮辱され裏切られたと知ったらどう出るだろうか。
我が家で誰より怖いのは行動力のある母だ。最悪二人の命が消えかねない。それはさすがに寝覚めが悪すぎる。
自分の人生が地獄行きになるのを防ぎながらあの二人が殺されるのは避け、なおかつあの二人の目論みを阻止する。難しいけれど、これから打つ手が最上の策、だといいのだが。
ダンユース家に事前の知らせも送らずに訪問するのは失礼だけれど、そんな失礼を補って余りある手土産を持っていくのだから許してもらおう。とにかくサムエルとの結婚から逃げるために彼に非があることを知ってもらわねば。お父様が婚約破棄に反対できなくなるくらい広めてしまうのだ。
それにしても私、あんな人を愛していたのか。あんな男と結婚して幸せな家庭を築くなんて考えていた自分に吐き気がする。そして絶対に彼を許さない。
頭を猛烈に働かせてどの順番でどう動こうかと計画を立てていると、向かいの席のハンナが両手を揉むようにして質問してきた。
「お嬢様、いいのですか?サムエル様を懲らしめるためとは言え、ダンユース夫人に話して人の噂になれば、お嬢様の名誉も同じだけ傷を負うことになるのではありませんか?」
「ハンナ、ここで私が我慢してサムエルと結婚してごらんなさい。結婚する前から夫を寝取られた妻という肩書きが一生残るのよ。どうせ名前に傷がつくなら私の人生を守れる方を選ぶわ。ん?目を丸くしてどうしたの?」
「いつも穏やかなお嬢様とは別人のようで、驚いております」
「そうね。私、大抵のことはどうでもいいわと笑って受け流すものね。でも、今回は別よ」
結婚を二週間前に取りやめたら当分は社交界の噂の的だろう。だけどこのままサムエルと結婚したら死ぬまで続く地獄が待ち構えている。今日の出来事を笑って許せる日は絶対に来ない自信がある。
どんな手を使ってでも結婚を回避しなくては。