表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

時が止まった彼女

作者: 藤宮ゆず

日が沈んで久しい。地方視察二ヶ月から戻ってすぐだったが男は王宮へと向かった。


本当は今すぐ休みたいくらいに疲れていたが、不敵に笑む彼の顔からそれを見抜ける者は少ない。ほとんどの者が彼の冷静沈着な立ち姿と思慮深い眼差しに心惹かれては、その後ろ姿を見送った。


「どこに行くの、ラート」


ラートは呼び止められ振り返った。視線の先には、黒く長い髪を束ねもせずそのままに流し、夕暮れの後訪れた闇のように深い紫の瞳の女が居た。


名をシリンという。決して美人と称される顔立ちではないが、どこか親しみやすさのある笑みを持ち合わせた女だった。


けれどもそれは一般的な話であって、ラートはシリンの優しい花のような雰囲気が大嫌いだった。シリンも同じく、ラートの誇りの高さと傲慢さを毛嫌いしていた。


だから普段とは違って笑みの無い素っ気ない表情をラートに向けていた。


「王ならすでにお休みになられたわ」


「一足遅かったか」


「視察から戻ってすぐ報告しなくても、明日でも間に合う」


ラートもシリンも王の臣下だった。どちらも二十代半ばだが、王は能吏(のうり)として重用していた。だから二人ともこの深夜に王宮への入場が許されていた。


「気になることがある。王を叩き起してでも耳に入れなければ」


「相変わらず不敬ね。でも今夜はやめた方がいい、最近私たちへの風当たりが良くない」


それは先代国王から二代に渡って仕える者達からのやっかみだった。しかしそれはよくある話だ。


「若さだけに固執して自らの能力をかえりみない老臣に興味は無い」


ラートの言葉にシリンは眉をひそめた。


「違うわ。奴らいつもは陰口の為にただ口を動かすだけだけど、今回は動きが変なのよ」


「だったらなんだ、国の命運と自分の命運を秤にかけることも出来ないのか」


「保身に走って言ってるわけじゃない!」


確かにシリンの態度で、それが尋常ではないことは理解した。しかしそれでもラートにも果たすべき義務がある。


「お前の言いたいことは分かった。それでもこっちも火急の要件だ。今夜中に耳に入れておきたい」


そうしてシリンはもう止めてこなかった。ラートにも事情があることを察し、またこれ以上は言っても無駄だと観念したからだ。


ラートの火急の要件とは、左遷され地方で謀反(むほん)を企てていた男に対する対処だった。この件に関しては早目に芽を摘んでおきたかった。なにせ左遷された男は今でも中央で力がある。少しでも影響を受けのが狭い内に、一刻を争っていた。


けれどもこのことは同僚のシリンにも話せない機密案件だった。だから少々強引にも見えるが、夜遅くに王に謁見した。


───けれども左遷されていた男はすでに中央にも手を伸ばしており、シリンの言う妙な動きをしている老臣はその男に(くみ)する者達だったのだ。左遷された男に対して王が手を下す前に、反発した者達が謀反(むほん)を起こした。


よほど綿密に作戦を練っていたようで、あっという間に王宮は地方の軍勢に囲まれ、王の首を要求した。


それは明らかに逆恨みだったのだが、ここ数年の不景気と若手への贔屓目、それら全てを十把一絡げにして王への反感を高めたようだった。


ラートは大臣の指揮の下、事態の沈静化に心血を注ぐ。


「状況は!」


「かなり()されています。どうなさいますか!?」


歳上の部下の情けない声への怒りも込めながら、


「王の剣は何をしている!配置陣営を見直させろ!」


役に立たない中央軍、通称王の剣がいつも通り機能していないのは明らかだった。恐らく軍の中にも謀反に(くみ)し、反旗を(ひるが)した者が居たのだ。


混沌と混乱の部屋の中に、シリンが青ざめた顔で駆け込んで来た。


「ラートまずい、王の寝殿にまで間諜(スパイ)が入り込んでいる!何人かは捕らえたけど、まだ全容が見えない」


ラートは舌打ちした。


「敵も用意周到だな」


「ごめん、もっとちゃんと調べておくべきだった」


唇が震えているシリンは、後悔と自責の念にかられているようだった。ラートはもう一度舌打ちした。普段のシリンならラートにこんな弱い姿を見せはしない。


「お前が俺に謝るなんてとうとう弱気だな。互いにやる事も守秘義務もあった。謝ってどうにかなることなのかこれは。過去を振り返る前にさっさと動け」


シリンはハッとして、次いでラートを()めつけてきた。


「分かってる。私は、私の出来ることをする。でもね、今回のことは私達にも責任はある。責任を負わなければならない。───王のところには私が行く。ここは任せたわよ」


「誰に命令してる。俺に命令するなら大臣にでもなるんだな」


そうして二人は背を向け、それぞれの役目を果たした。後に王はシリンによって救出され、ラートは大臣指揮の下事態を沈静化させた。


謀反を封じ込めるまで半年、地方を含めて安定させるのにまる二年かかった。


それからラートは一度地方へ飛ばされたが、きちんと手順と実力を伴ってまた中央へと戻り、今度こそ誰からも文句の言えない能吏への変化した。


けれどもその間シリンの名を聞くことは無くなった。


シリンは王救出の際深手を追って意識不明の重体となった。


一命は取り留めたものの、その後行方不明となった。ラートの急激な成長はこれが要因と噂された。競り合う相手を失い、最初はやりどころのない感情を燻らせていたが、それはほんの(つか)の間。むしろ行く手を阻む者が消えたとせいせいしたように出世していった。


***


それから三十年の月日が流れた。ラートは五十八歳。今や大臣となり、老齢の王に代わってこの国を牛耳っている。


誰もが有能と認め非の打ち所のない大臣。不正汚職を許さない高潔さ。しかしそれは国王ではなくラートの政治だった。排除された者達が越権行為だと申し立て、また謀反が起こった。


星の(またた)く美しい夜空を、どこからか上がった狼煙(のろし)戦火(せんか)が邪魔をしていた。


「どうなさいますか、閣下(かっか)


それは前の謀反の時に尋ねてきた質問と同じだった。けれどもあの泣き言のような情けない声ではなく、場数を踏んで成長した落ち着いた声音だった。


メイランは三十年前と同じ歳上の部下で副官だ。二人とも白髪になり、互いに歳をくったとラートは小さく苦笑した。ここまで長い付き合いになると思わなかった。


「ここはいい。お前は王の元へ向かって守りを固めろ。目的は私だ」


「閣下、ならば私はここに残るべきです」


「いいや。お前はお前の出来ることをしろ。死ぬことが務めではないはずだ」


「では閣下はここで死ぬおつもりなんですね」


メイランは()めつけてくる。彼がこんな態度を取る日が来るなんて思いもしなかったが、これはこれで感慨深かった。


「人はいずれ死ぬ。私は元々今日で命尽きるんだ」


「閣下!」


「勘違いするな。むざむざ殺されるつもりは無い。ただ私には今日が命日だと『分かる』んだ」


そう言ってラートはある書状を手渡した。


「これは・・・・・・!」


「理解してくれ、私がここまでするのだから、冗談じゃないんだ」


メイランは情けなく涙目になって、深々と礼をして部屋を去った。やはり人間とは何年経っても、それほど本質は変わらないような気がした。


彼の情けない顔は経験不足と頼りなさによるものだと考えていたが、本当は大き過ぎる慈愛によるものだと薄々感じていた。彼になら任せられる、後のこと全てを。


そして部屋に武装した人間の荒々しい足音が舞い込んできた。


「大臣だ。抵抗するなら殺しても構わん。首さえあればいい」


そう真ん中の人間が言った。自分と同じくらいかそれ以上の歳。そしてその顔には微かに見覚えがあった。


「なるほど、三十年前の謀反の残党か」


「そうだ。我々は決して諦めずに機を待っていた。お前は王を(そそのか)し、我々を排除したんだ」


「排除される理由があったことは棚に上げるのか」


「そんなものはお前の捏造だ。我らはそれを糾弾する」


それこそが捏造だとラートは呆れたが、呆れて笑えてきた。ラートの不敵な笑みに、攻め込んで来た男達はは不快そうな顔をした。


「『私達』はすでに譲位した」


「誰のことだ」


「私と、王だ」


その言葉に連中はどよめいた。


「なっ!まさか!」


ラートは意地悪く笑う。


「陛下はすでに生前退位され、王位を王子に譲渡された。そして渦中の私も、副官へと全権移譲している。つまり責任は果たしたということだ。ここでお前達が私の首を取れば、それはもはやただの殺人に過ぎないということを自覚しろ」


その冷徹な眼差しと言葉に、(だれ)もが(ひる)んだ。


「そんな、王と大臣が共に譲位など前例がない!」


「前例が無ければやらない、というのは停滞と同じだ。そんな堂々めぐりしか出来ないから、お前の上司も左遷されたんだ」


男が言葉に詰まると、隣の仲間が不安げに尋ねた。


「どうしますか」


「やれ!この混乱は死をもって償ってもらう!」


武装した謀反人達は一斉に剣や槍を構える。ラートは考えた。じきに全権を握ったメイランからの救援はやって来る。部下にしていただけあって無能ではない。


けれども多分、間に合わない。それはラートの寿命自身の話だ。


(ああ、半分にしても長い人生だった───)


手から力が抜けていく、目蓋を閉じかけた時だった。


『───諦めてどうすんのよ!』


突然左頬に痛みが走って、顔を上げた。目の前には変わらず謀反人達。声の主も見えない。けれども頬の痛みは確かにあった。襲い掛かってきた槍をかわし、ラートは腰の剣を抜いた。


嗚呼、無情にも己の鼓動は大きく響いてくる。それが恐ろしく悲しかった。


***


───三十年前。


謀反が起こってから十日。城に忍び込んだ間諜(スパイ)や反旗を(ひるがえ)した地方の軍も鎮圧した。しかし完全に沈静化はしておらず、まだ謀反人の残党も多く残っている。


それでも城は落ち着き取り戻し、ラートはようやくシリンを見舞いに行った。


「騒動の責任を負うって、大口叩いたのはどこのどいつだよ」


生気の無い青白い顔からは返事が無い。シリンの胴体には血の滲んだ包帯が巻き付けられていた。王の移送中に取り囲った奴らに背中を大きく切られたという。


部下に慕われるシリンはいつも笑顔を絶やさず、王を気にかけることも忘れなかった。


しかしラートとは生きてきた過程が違い過ぎて意見が噛み合わず、ラートの方が歳上なのに対しても構わず、頬を上気させて本気で怒鳴りつけてきては言い合いになるのはしょっちゅうだ。それでも互いに認め合っていた。ラートはシリンの寝顔を眺めた。


「信じられないでしょう、あのシリン様がこんな姿で、言葉一つ発せられないなんて」


シリンの部下イルアはそう、やり場のない怒りを込めながら呟いた。イルアはシリンの三つ下で、弟のようによく懐いていた。


「王を狙ったのを庇ったって言われてますけど、本当はシリン様を狙ったんだと思います」


「何故」


「あなたになら仰っていたのではありませんか、最近他の臣下達の動きが怪しいと。シリン様なら謀反が起こる前に、あなたに忠告したはずだ!」


イルアは立場など捨て去ったようにラートの襟元を締め付けてきた。


「あなたならこの方を守れたはずなのに、どうしてっ!」


「落ち着け。王宮は混乱に陥っていた、いちいち臣下の安全など気にしていられない。最優先は陛下の安全だった」


「それでもこの謀反はあなたにも一因があったあったはずなんだ!」


「それを言うならシリンも同じだ。お前がシリンの部下なら、知らぬはずあるまい」


イルアは痛い所を突かれて、悔しそうに顔を歪めて渋々手を離した。


「・・・・・・申し訳ありません」


「今回は不問にしておく。まだやることが残っているからな」


ひとまず王都は落ち着いたが、地方では影響が残っている。じきにラートも地方へ赴任することになるだろう。


イルアは悔しそうに唇を噛んだ。


「・・・・・・シリン様は、もう永くはないようです」


「そうか」


「ラート様なら何かご存知ありませんか、シリン様を延命させる方法を。ラート様は・・・・・・その、牢の・・・・・・」


イルアは口ごもるが、彼の言わんとしていることはすぐに察しがついた。ラートは首を横に振った。


「お前の言いたいことは分かる。だが妙な期待は抱かない方がいい。俺にもやることは山積みなんだ」


「・・・・・・はい・・・・・・」


イルアはどこか茫然自失とした状態で医務室を出て行った。今人手不足は甚大だ、イルアもすぐに地方平定に携わることだろう。だからこそ、王都にシリンを置いていくことに後ろ髪を引かれるのだろう。


「永くない、か。部下を送り出す前に死ぬなんて情けないな」


そう言うとシリンは少し怒った顔をした、ような気がした。


そうしてラートは医務室を後にして、王城の地下牢に向かった。堅牢な地下牢には通常の犯罪者は捕えられていない。


そこには王に歯向かった『魔術師』が捕えられている。魔術師は本来国政に関与しない。それが慣例だった。なのに時々空気を読まない魔術師が国政に横槍を入れて来る。


そういう魔術師はここに放り込まれる。ラートはこの地下牢を管理する権限を持ち合わせていた。牢を除くと、痩せた小さな老人がくつろいでいた。名前は知らないし、年齢も不詳の魔術師。


「よーう、坊。元気かい」


「坊って歳じゃないんだがな」


「ワシからしたらそうなんだよ。けけけ」


妙な笑い方をして、不意に見透かすように視線をやってきた。


「何を困っとる」


「瀕死の人間を延命させたい」


「そんなの医者に言えばよかろ」


「今の医療じゃ無理だ。お前達が技術支援をすれば格段に進歩するがな」


老人は呆れたように首を振った。


「魔術師を煙たがってわざわざ遠ざけておるのは国の方なんじゃろうに。・・・・・・ふむ、つまりお前さんは、はなからワシと取り引きをするつもりか?」


「そうだ。治療とは言ってない。恐らくあれはもう、治療なんてものでは取り返しのつかないところまできている。勿論対価は払う」


ラートの言葉に老人はニヤニヤと笑った。


「坊や、ワシはお前のそういうところが好きじゃ。きちんと対価を払って取り引きを試みる。加えてもうちっとこの牢の居心地を良くしてくれたら、なお良いんじゃがのぅ?」


「ここの居心地か悪いなら都合がいい。ここから出してやる」


「なんと!そんな無茶をして大丈夫か?」


「地上では謀反が起こった。そのゴタゴタのせいで誰かが逃がしたことにする。俺は地方に赴任することになりそうだし、まあ、老人一人居ても居なくても一緒だからな」


「最後の一言要らんかったのぅ。ほんで、その嬢の延命と何を引き換えにする?」


ラートは眉をひそめた。相手が女とは一言も言ってない。


(状況を知っているのか?)


ここの牢は特殊な造りで、魔術師を無力化する。しかしこの老人は未だ魔術師であり、一人でもここを出て行くことが可能なのかもしれない。なのに出て行っていないとなると、悪趣味極まりない。


(しかし使えるものは使う)


「延命の対価は俺の寿命だ」


「ほほ!坊が自分の命を削っても他人助けたいなどと聞く日が来るなんて、明日は謀反かの?」


そこは明日は雨か雪だろ。


「縁起の悪いことを言うな。余計な詮索は要らない。出来るのか出来ないのかどっちだ」


「うーむ、気になるが、まあええか。坊には良ぅして貰ったからの。ただワシの言う延命とは、その嬢の時を止めることじゃ」


「何?」


どういう意味か聞く前に説明してきた。


「嬢はそのままでは死へ辿り着く。その歩みを坊の寿命を使って無理矢理引き止める、それがワシの言う延命じゃぞ?つまり心臓は動かんし、血も巡らない。けれども体温は(ぬく)いし、肉も腐らないし、歳も取らない。永遠に時の止まったまま、時を過ごす」


「そんなことが・・・・・・」


「可能じゃ。坊と嬢で寿命を半分こすることになるがの」


「半分こ、な。つまりあいつが死ぬ時、俺が死ぬということか」


一瞬目を見張って、悲しそうに微笑んだ。


「そうじゃな。最期まで命分かつというならば、そういうことになる」


「それで、お前への対価は何にする。どうせ寿命は延命への対価であって、その仲介役のお前にも対価が必要なんだろ」


老人は面白そうに目を輝かせた。


「ほほ!それに引っ掛からんとは、ほんに優秀なんもんじゃ!けけけ、ほほほ」


「その不気味な笑い方やめろ」


「まあワシをここから出してくれるっちゅうことで、ワシへの対価はそれでよい」


そうして契約は成立した。その日から老人は牢から居なくなり、シリンの時は止まった。ラートはシリンを連れ出して、ひっそりと自分が管理することにした。


そうしてシリンは表向きは行方不明となった。イルアが勘づいて何か言ってくるかと思ったが、何も言ってこなかった。


もしかしたら連れ出したことに気付いていないのかもしれないし、生きているだけマシだと思ったのかもしれない。


そうしてラートは誰にも知られていない、隠家にシリンを寝かせた。ずっと、三十年間。


***


(私は、生きているのか)


ラートは今日で寿命が尽きることを自覚していた。あと何日と明確に分かるわけではなかったが、今日が最期だというのは何故か不思議と分かっていた。


そして同じ時にシリンの鼓動も同じく止まるのだと。だから全権を副官に譲り渡した。王も病床の身で、生前退位することに異論は無かった。全てきちんと終わらせて、心残りなどあるはずが無かった。なのに。


『ばかね、天国で首と胴体が別々のあんたなんて、見たくないわよ』


またどこからか懐かしい声が聞こえて、ラートは舌打ちをし、そして微苦笑した。


(生きて戦えってか)


恐らくシリンは自ら契約を断ち切ったのだ。どうやって目が覚めたのかは知らない。それでもラートにはあと一日猶予がある。だから戦う。生きているのに死ぬ理由なんて無いから。


ラートが剣を使えることを知らなかったらしい。現れた謀反人達を数人切り伏せると、やはり有能な副官から救援が差し向けられた。そうして連中は捕えられ、長い長い夜が明けるのだった。


「閣下!」


メイランが駆け寄ってきた。どうやら峠は越えたらしい。首謀者は捕えられ、すでに王子は王として責務を果たしているらしい。ラートは淡々と、


「私はもう閣下ではない」


と答えたが、メイランは首を横に振った。


「いいえ、閣下です。私にとってはいつまでも」


「そうか」


ラートが傷まみれで歩き始めてメイランはギョッとした。


「どこへ行かれるのですか、傷の手当を・・・・・・」


「構わん。もうほんの少ししか残っていないからな」


その言葉に、とうとう涙がポロポロとこぼれ出した。こんな泣きやすい大臣で大丈夫かと少し不安になった。


「閣下、本当に、今までのご恩は忘れません」


ラートは苦笑して、肩を叩いた。


「使いがいのある副官だった」


それからラートは馬を手に入れようと厩舎に向かった。すると、朝焼けを背景に王所有の馬の手網を握って待ち構えている人物が居た。その馬はこの厩舎で一番早く遠くに行ける駿馬だった。


「お久しぶりです」


「イルアか」


イルアはニコッと笑った。本来彼はよく笑っていて、あの女によく似ていた。


「随分老けられましたね。きっとあの方も笑われますよ」


こういう嫌味を言うところも。


「不敬だな。今回は不問にせんぞ」


「それは恐ろしいですね。こちらをどうぞ。用意しておきました」


手網と、馬には水筒がくくりつけられていた。ラートの行き先を知っているらしい。王はどうせ乗ることも探すこともしないだろうと、遠慮なく鞍に跨った。


「お前は?」


「え?」


「会わなくていいのか?」


ラートは手を伸ばしたが、メイランは笑って手を取らなかった。


「私はもう会いました。それにもうすぐ、また会えます」

「・・・・・・そうだな」


ラートは餞別代わりにメイランの顔は見ず、その頭をポンと叩いてから馬を蹴った。メイランはずっと、ラートの後ろ姿を見送っていた。


***


どこにでもある閑静な住宅街、その一角にラートの隠家があった。木を隠すなら森の中。裏道を通れば家には誰にも見られずに入ることが出来る。


そして鍵を開けた。久々に足を踏み入れ、そのまま二階に向かう。アノブを握って開くと、ベッドに座る彼女と目が合った。決して起き上がることが出来ないのばかりか、今はすでに生きているはずのない女。


「あらら、随分しわくちゃになっちゃって」


全く歳をとっていないシリンはくすくすと笑った。


「そんなしわくちゃでもないだろ」


失敬な、と無表情なラート。


「ゴメンね。もっと早く契約を切ってあげられたらよかったわね」


「今動けるのは、イルアの命のおかげか?」


十年前に死んだイルアを思った。シリンを最も慕う彼女の部下。老衰と聞いていたが、恐らくあの老人の魔術師と出会って契約したのかもしれない。


馬を用意していた彼はきっと、幻だったのだ。


「そう。あんたもあの子もどっちも大バカ野郎よ。このまま夢の中で眠るのかなって思ってたら、あんたが命を止めてくれて、イルアが残りの寿命投げうって、無理矢理私にあなたと話す時間をくれたの」


シリンは困った顔をした。


「私イルアの寿命は、つっ返そうかと思ったけど、出来なかった。だってイルアったら家族に孫までつくって、幸せになって、仕事も終わらせて。極めつけに『私を拾ったのはあなただから、残りはあげます』ですって。重いのよ、本当に・・・・・・」


「重いのはイルアの積み重ねてきた人生の欠片だからだろ」


ラートの言葉を聞いて、嬉しそうに微笑んだ。


「そうね。───ありがとう。私を生かしてくれて。あんたの命っていうのはちょっと複雑だけど、これはこれで(いき)かもね」


「言ってろ。俺は疲れた」


ラートはゆっくりとベッドに倒れ込んだ。昨夜は寝ていない。血も止まって、ただただ眠気が襲ってきた。砂ぼこりでどろどろだが、元々自分の家なのでかまやしない。シリンはラートの頭を膝に乗せた。


「おやすみなさい、ラート」


汗ばんだ前髪がかき上げられ、ラートは涼しくなって心地よくて、そのまま眠った。


***


どこからともなく現れた老人に、シリンは丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。この人が死ぬ前に契約を切らせてくれて」


「構わん構わん。坊には良ぅしてもろた。あんな所でおっちぬは可哀想じゃからのぅ」


「イルアは?」


実はラートが危ないと夢の中で教えてくれたのはイルアだった。


「もう成仏したじゃろうな。あの世で待っておる」


「私が動けるのは、イルアの残り十年の寿命をぎゅっと丸めて私にくれたからなんですよね?」


「そう。それでようやく一日動ける。嬢は半日早く坊と契約を切った、そしてその一日を受け取った。だからもうすぐ、イルアにもラートにも会えよう」


「イルアはともかく、ラートはがらにもないですよね。というか私が居なきゃあと三十年生きてたなんて、長寿過ぎますよ」


シリンはラートの頭を軽く小突いた。ラートにはしわくちゃとは言ったが、本当は歳をとった分より貫禄がついて元来の美しさに荘厳さが加わっていた。


本当に憎たらしいくらいに顔が良い。


「それが嬢の言っとった、責任を取る行動だったんじゃな。少し意味合いは違うが」


「やっぱり、私をイルアより先に死なせないようにしてくれたんですね」


それはイルアを拾って育てたシリンの口癖だった。姉のように慕ってくれるイルア。最初は無表情で何に対しても頓着せず、ずっと心配だった。ようやく人間性が芽生えたところであの謀反だ。


「ラートは知らないと思うけど、イルアあんたのこと尊敬してたのよ。悔しいけど、本当に」


シリンは涙をこぼした。それは感謝と謝罪と愛情と。


イルアの孫は一体どんな子なのだろう。いつか会って話がしてみたい。家族に囲まれる幸せを、あの子に与えてくれてありがとう。ずっとシリンに代わってラートを気にかけてくれていた。そして命を貰ってごめんなさい。ずっと伝えられなかったけれど、─────。


いつの間にかシリンとラートは、一面花畑の世界に居た。また忽然と姿を消した老人の、最後の手土産かもしれない。


そうして二人は共に眠った。誰からも見つからず、優しい花の香りのする場所で。




ラートは決して口にはしませんが、シリンの部下メイランを気にかけていました。


そして牢で閉じ込められる老人(魔術師)にも、せめて普通の生活を送れるようにしてやっていました。


彼は厳しい人生を送ってきて、多くの苦労を味わい、優し過ぎるシリンとは馬が合いませんでしたが、人としての慈愛と礼節を忘れていません。


またメイランは貧困から道を外れていたところをシリンに救われました。


ラートに対して、主であるシリンと仲が良くないからと毛嫌いしそうにはなりました。


しかしラートには彼なりの信念があると気付き、また多くの苦労をしたと知ってからは尊敬の念を抱くようになります。


そしてシリンが行方不明になったと聞いても、薄々ラートの仕業と気付いており、ずっと感謝していました。


それから野に放たれた老人に出会って、全てを知ります。そして二人への最後の恩返しとして、残り十年の寿命を差し出したのです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ