理想の相手と偽りの関係
知りたくない。
ゴブレットを持つ手がカタカタと震える。返ってくるだろう答えを聞きたくなくて、疑問を口に出せない。その代わりに緊張して手が震えた。
落としてこぼしてしまわないうちにゴブレットを石のテーブルに置いて、向かいに座るロレンツォに目を遣る。
多くの男たちを虜にしたという高級娼婦だった母親譲りの燃えるような見事な赤毛。顔もどちらかと言えば母親似で、性別こそ違っても、赤ん坊から老婆まで見惚れるもの。性格は温厚で、歳だってそう離れてはいない青年。
誰だって夢見る理想の婚約者だ。
理想ではないのは、彼が司祭の庶子だということ。
枢機卿や法王の庶子なら、一国の王子のような地位と権力がある。
だが、彼の父親はこの地では名家でも、総督の家や王家ではないので、司祭にしかなれなかった。
同じ庶子でも父親の権力次第で地位も変わってきて、司祭の息子に過ぎない彼はわたしと婚約するしかなかった。我が家のような商家しか、司祭の庶子には旨味がないから。
その代わり、母親と同じように異性受けのいいロレンツォは恋人や愛人には大人気だ。
母親の付き添いでしかこの家の敷地を出たことのないわたしにさえ、ロレンツォの噂は聴こえてくる。耳を塞ごうとしても駄目だ。メイドや洗濯女たちだけでなく、母の客までもが今の恋人が誰か、誰の愛人になったのか、姦しく囀っている。
誰もが一度くらいはと夢を見る相手。それがわたしの婚約者だ。
だから、わたしはロレンツォに聞けない。噂は本当なのか、心を捧げている相手がいるのかと。
聞いてしまったら、後戻りができなくなってしまう。
乞われて婚約者になったわけでもないから、所詮は噂なのだと平然としていられる自信もない。
わたしは彼に結婚を申し込んだ家の中で一番条件がよかっただけで。
それなのに、他の人たちと同じように恋している愚か者。
他の人たちが羨む婚約者になっているけれど、わたしはこの家の敷地内からほとんど出られない。結婚するまで良家の娘は家の中で大切に育てられるしきたりのおかげで、嫌なものは見ないですむ。
だけど、噂だけは耳に入ってきて、わたしを眠れなくする。
「フィロメーナ。ねえ、笑って」
わたしの顔は平凡で、そう言ったロレンツォのほうが美しい顔をしている。
「そんな辛そうな顔してないで、笑って」
にっこり笑うロレンツォはとても綺麗で、まだ恋に落ちていない人も恋に落ちるだろう。既に恋に落ちているわたしもまた恋してしまう。
「辛い時や苦しい時ほど笑わなくちゃ。母さんがそう言ってたよ」
こんな思いをさせているのはロレンツォなのに、その本人が笑えと残酷なことを言う。
でも、愚かなわたしは愛するロレンツォの言いなりで、無理矢理笑顔を浮かべてしまう。
ロレンツォが他の女性を愛しているかと思うと夜も眠れない。
噂で心が辛くて食事も喉を通らない。
何日も眠れぬ日が続いて、ある日意識を失って眠る。
そんな生きる屍のような生活をしていても、わたしとロレンツォが結婚することは変わらなかった。
結婚してもこんな気持ちが続くというのに、母は結婚した者勝ちだと言う。
でも、周りはわたしをロレンツォの妻だとは認めてくれないかもしれない。
それでも、母は言う。誰の妻なのか、誰の夫なのかはっきりさせた者勝ちなのだと。
婚約している間もロレンツォはちゃんと会いにきているでしょう、と言われれば、その通りだった。
なら、大丈夫よ、と母は言う。
母が言うことには、社交辞令で賞賛し合うのは当たり前でも、結婚もしていないのに噂の立つ女性や浮気妻は爪弾きになるそうだ。そんな人たちのことを気にしてはいけない、と。
気にかけてもらえているのだから、自信を持ちなさいと言う。
父が用意した結婚式用のドレスは遠くの国々から集めた粒の揃った真珠が無数に縫い止められていて豪華だ。王女ですら用意できないそれは父が威信をかけて作らせた一品で、これを着るのかと思うと怖気付きそうだった。
わたしはただの商家の娘で、王女さまではない。
こんな高価なドレスを着るのが怖かった。
だけど、痩せた分を詰めてもらっている時に着ていたら、恐怖どころか誇らしさを感じた。まるでドレスに励まされているようだった。
一国の王女ですら着られないドレスと誰もが羨む婚約者。
わたしにはもったいないものだ。
でも、そのドレスのおかげでわたしはなんとか結婚式でロレンツォの隣りに立つことができた。
ロレンツォは顔が強張っているわたしに言う。
「フィロメーナ。ねえ、笑って」
こんな時なのに、いつもと変わらない言葉。
反射的にわたしは笑顔を浮かべてしまう。いいように飼いならされている。
それを見たロレンツォが微笑むと、ドサドサッと後ろで何かが倒れる音がした。
なんの音だろうと振り返れば、参列者の女性たちが何人か倒れていた。
ロレンツォの笑顔はこんな時でも罪作りだ。
私の婚約者は母親と他家に訪問する以外は家の敷地から出ることもなく大切に育てられた。
それは用心に用心を重ねた結果だった。裕福な家の子どもは身代金目当てに誘拐されることを考えれば、そのように育てるのだから。
裕福な家の娘が結婚もしていないのに家の敷地から出るのは親族の付き添いと護衛がいる時だけ。親族の付き添いがない場合、屋敷の外の危険を知らない娘が護衛を帰したり、護衛の目を盗んで逃げ出す可能性がある。それを防ぐ為に親族が付き添って目を光らせておくのだ。
これはとんでもない男に引っかかって誘拐されたり、娼館に売り飛ばされたり(時には身代金の受け渡し後におこなわれることもある)、傷物にされて病んでしまうしまう場合があるからだ。
それ以外でも、家からの束縛がきついのは考えなしな行動をとらせないためである。
たとえば、身分の高い人物の子どもを産んでしまった場合はいい。子どもの母方として伝手が手に入る。場合によっては、正妻との間に子どもができず、養子にもらわれていく可能性もある。時には子どもを質にとって、要求を通すこともできる。
だが、そんな幸運はほとんどない。
大半は親からの手切れ金目当てに甘い言葉で騙すものだ。できてしまった子どもの処置に困って性質の悪い堕胎薬に手を出して命を落としたり、子どもを親戚の養子に出して何らかの瑕疵のある相手と結婚する。
金と時間をかけて育てた結果がこれなのだ。結婚するまで監視の行き届くところに置く理由はわかっただろう。
しかし、そこまでして安全を優先し、大事に育てても、まともな性格になるとは限らない。
夜会で結婚相手を探していながら、婚約している私に秋波を送ってくることもある。
それも嫁いだ後の生活を考えてか、婚約は申し込んで来ない。夜会の参加や他家の訪問にも事欠く財産の私と結婚するメリットはないと見なされているからだ。
私は名家の三男である司祭の庶子で、財産は庶民が一生働かなくても生きていけるぐらいしかない。護衛くらいは叔父がつけてくれるだろう。
それでも私に娘を嫁がせたいと思う者はいない。私の婚約者の父親以外は。
婚約者の父親は裕福で、娘の持参金も莫大だ。私がギャンブルや借金をしない限り、婚約者はいつまでも同じ生活を送れるくらいだ。それを目当てに愛人になりたがる女もいる。
安定した生活の保証のある既婚婦人は更に性質が悪く、しつこく食い下がってきてイライラする。社交辞令すらわきまえていない態度を愚痴れば、当の夫たちからある提案を持ちかけられた。
一度は騙されて惚れた相手だったり、妻の実家との関係で強く出られなかった夫たちは自分たちの顔に泥を塗る妻をどうにかしたいと思っていたのだ。
未婚でありながら売約済みの私に秋波を送ってくるような娘をどうにか結婚させることができても、まともではない娘はまともではない妻にしかならない。そんな妻に頭を抱えている夫は多いようだった。
私の婚約者に危害を加えそうな未婚の令嬢共々、夫から見限るかどうか見極める試験を受ける既婚婦人とこれ見よがしに夜会で振舞ってみる。
大袈裟なまでに褒める社交辞令のお世辞と長時間二人だけで話している姿を見せるだけで、思うように評判は落ちていく。既婚だからと大目に見られているのは夫の代わりに話す必要があるからだ。未婚の令嬢も、結婚に向かって仲を深めてていると見られる。それを一人だけに長時間使うとなると、面白おかしく噂されるのは当たり前だ。
とうとう、私が某夫人の手に落ちた。とうとう、某令嬢が私の恋人になった。と、好き勝手言われる。
未亡人以外でこういう噂が立つのは大変まずい。
表立って浮気したことがばれれば、夫や実家の面目を潰す結果になる。これが未婚で噂になれば何らかの瑕疵のある相手としか結婚できなくなる。
政略結婚なら多少の浮気は見逃されるが、夜会などの多くが見ている場所での浮気はご法度だ。
社交辞令と節度のある言動が必要な場所で、付き添い役として婦女子の交流に安全を図っているならともかく、他の者との交流を遮って独占していれば愛人とみなすのが常識だ。たとえ、婚約者や夫から借りて踊ろうが、一緒に知り合いに話に行こうが、浮気とはみなされない。踊りは自分たちだけではなく見ている者も楽しませることだし、知り合いに話に行く時はカード遊びと同じように多人数で楽しむからだ。
適度を知らず、私の意図に気付かない女たちだけが噂になっていく。
妻に悪評が立てば、我慢してきた夫も妻の実家にも強く出られる。自分では妻が御しきれないと表明するのはプライドが傷付くことだろうが、実家の父親が娘の躾に失敗した責任を迫れることは大きい。妻として不良品であることが周知の事実なら、それは離婚理由になる。
哀れな寝取られ夫たちはその後、恥をかかせない女性と再婚して幸せになっていく。
私も私の婚約者の安全を脅かす女たちを排除でき、恩が売れる一石二鳥の作戦だった。
排除された女の家の怒りを買わなかったかというと、私の母親が高級娼婦だったおかげで、私もそういう類の人間だと思われただけのようだ。人の目に触れない場所に行った証拠も目撃者もいないので、実際に仕返しなどしようものなら笑い者になるだけだったのかも理由かもしれないが。
賢明な女は危険だという男には近付かないし、近付かれても適切な距離を置くものだ。称賛の目で見ることは社交儀礼に適っていることで、鑑賞しているだけなら私の婚約者に危害を加えたりはしないだろう。
私は噂に振り回されながらも、愚かしくも私を慕わずにはいられない婚約者を愛している。彼女だけが私の価値がわかり、信じていてくれる女性だから。