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ある出来事

作者: 実弾

 子供たちは私が目覚めているのに気付かないようだった。子供が何人いるのか正確にはわからない。声の感じからいって四五人ほどだろう。彼らは大声で笑ったり、意味のない話題について話していたりしていた。彼らの声は私を不安にさせ、嫉妬心を抱かせた。彼らを怒鳴りつけたい気分に駆られたが、そうすることはできなかった。

 私はいつものように、耳を塞ぐのではなく、回想を始めることにした。この方法によってのみ、私は外界からの雑音から逃げることができる。思い出す記憶は既に決まっている。かつて私に起こった、ある冬の出来事についてだ。あれはもう何年前のことだろうか。私はあの日から経過した月日を数え上げることはできない。しかし記憶は鮮明に残されている。回想を重ねるほど、記憶に含まれる赤色や血の匂い、金属音はそのリアリティを増していき、霧が晴れるようにその詳細を露わにしていった。今では私は記憶の色を、実際に色を見ているかのように回想し、記憶の音を、現実に音を聞いているかのように思い出すことができる。

 本来記憶というものは、雨風に曝される遺跡のように、時間の経過に従って風化していくべきものであるのに、あの冬の記憶だけは時間に逆らって次第に明瞭になっていくのは不思議だった。私はかつての友人の名前や、自分の出身地を思い出すことができないのである。

 それとも、それは砂時計の下部に溜まる砂のように、長年の月日を経ることで築かれていった、捏造記憶と呼ばれるべきものかもしれなかった。しかし今の私にとっては、真の記憶であろうが、偽の記憶であろうが、どうでもいいことであった。実際に見ているように感じること、現実に聞いているかのように思い返すこと、そのリアリティこそが今の私にとってすべてである。

 

 真冬の朝のことだった。息は白く、駅までの道の途中、小学生たちは土にできた霜柱を心地良い音を発てて踏んで壊していた。昨晩からぱらぱと塩を撒くように雪が降っていたが、積もるほどではなかった。その日の私は、駅のホームで本を読みながら電車を待っていた。周りには私と同じくコートを羽織ったサラリーマンたちと、中学生らしき制服姿の子供たちがいた。彼らは口元に二本の指をあて、息が白いため煙草を吹かすように振る舞う遊びをしていた。

 昨晩の天気予報では雪が多く振ると言われていたが、幸いにも予報は外れ、電車は予定通りに到着するらしかった。私は本に一度栞を挿み、腕時計で時刻を確認した。遅れていないならば、あと十分ほどで列車が到着するはずである。満足した私は読書を再開した。もう何年も読めていないが、私は本を読むのが好きであった。通勤途中の読書が日常における些細な幸福の一つであった。

 そうしていると、「第三番線に貨物列車が参ります」という女性のアナウンスが流れた。第三番線は私の目の前にある線路である。右に目をやると遠くから列車が、低い音を発てながら走って来ているのが見えた。茶色い塗装の、毎朝見かける列車だった。私はすぐに目を本に戻した。主人公と老人が会話をしている場面であり、物語は中盤にさしかかったところだった。そのとき、視界の端をなにか赤いものが横切った。こん、という軽い音がした。どこからか「あっ」という声がした。私は視線を上げた。

 私の前には、茶色い制服の少女がこちらへ横顔を向けるように立っていた。視界の端を通った赤はそれだったのだろう、火のように赤いマフラーを巻いていた。色白で、黒い髪の、高校生ほどのごく普通の少女に見えた。頬がひどく赤かった。特に見覚えのある顔ではない。ただそれだけなら私は再び手元の本に目を戻したはずだ。しかし私の眼球は空間に釘で打たれたように動かず、私はその少女から視線を外すことができなかった。

 少女が立っている場所は、ホームではなく、線路の上だったのである。少女は今まさに衝突しようとする列車を抱きしめるかのように手を大きく広げ、誇らしげな笑みを浮かべていた。マフラーが風に揺れている。私は雷に打たれたかのように、なにも考えることが出来なかった。

 一瞬遅れて、彼女は死ぬつもりだと私がようやく理解したとき、列車がけたたましい音を鳴らした。今思えばそれは緊急停止をするためにかけたブレーキが発生させる金属音だったのだが、まるで獣の咆哮のように聞こえた。電車はとまらない。

 またどこからか「おい!」と男の声が上がった。列車が接近しても彼女は表情を変えなかった。変わらず誇らしげな表情を浮かべていた。夢見るような表情でもあった。

 電車はとまらなかった。電車と彼女が腕一本ほどの距離に近づいた。電車の風圧で彼女のマフラーと髪は後方へと流れていた。

 彼女と電車が激突するその瞬間、少女は私を振り向いた。

 

 ……未だに私はその表情を悪夢に見ることがある。彼女の顔からは、あの誇らしげな表情は、雑巾で拭られたかのように消え去っていた。代わりにあったものは、大きく見開かれ、血走った目であり、深く刻まれた皺であり、恐怖に弛緩した口であり、生気が完全に欠落したひどく醜い顔であった…………つまり、彼女は死病にかかった老婆のように見えたのだ。

 私はその微かな時間で彼女のすべてを理解できたように思う。名も知らない彼女の誇りを、狂気を、恐怖を、絶望を、手に取ったように理解できたと思う。

 少女は右手を私に――この私に――向けた。ほとんど反射的に私の手も伸びた。手は届かない。彼女が口を開き、なにかを告げようとした刹那、列車が彼女を轢いた。

 

 手袋をはめた男達が彼女の一部を拾い上げるのを眺めながら、私は膝を震わせていた。ひどく恐ろしかった。私は初めて、心の底から、人が自ら死へと歩む行為を恐ろしいと感じた。

 線路には、どす黒く変色したマフラーが砂浜の腐乱した魚のように力なく横たわっている。あたりには生臭いにおいが重く漂っていた。咽喉元にせりあがってきた吐瀉物を両手で抑えながら、確かに私はこのとき、ある感情を抱いたのである。

 決して彼女のように自らの手で死にたくないという、絶対的な恐怖が私を完全に支配していた。たとえ四肢が千切れ、不治の死病にかかろうとも、こういう死に方だけはしたくないと思った。投身してから地面に落ちるまでの恐怖を、手首を切ってから意識が途絶えるまでの恐ろしさを怖いと思った。私はいずれ訪れる死が一瞬のものであることを願った……。


 いつのまにか私は眠っていたようだ。誰かが病室の扉を開ける音で私は目を覚ました。「静かにしなさい」と子供を叱る女性の声が聞こえた。聞きなれた、普段私の面倒を見ている看護師のものだった。子供たちは気の抜けた返事をした。それから彼女は子供達と会話を始めた。そうしているうちに、一人の子供が看護師に質問をする声が聞こえた。

「あの人はいつも寝てるけれどいつ起きてるの」

 少しの沈黙が流れた後、彼女が言った。

「あの人は何年も前、事故に遭ってから寝た切りなの。そっとしておいてね」

「わかった。でも……」

 少し沈黙した後、

「死にたくなっても死ねないなんて、かわいそうだね」と少年が言った。

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