すみれの花を抱きしめて
プシューという音と共に電車のドアが開き、今日も僕は最後尾の車両に乗り込む。運転室が見える場所。ここは座席がなく広いスペースがある。
ドア脇の金属製の手すりを掴み、外を眺める。ここが僕の定位置だ。
『間もなくドアが閉まります』
聞き慣れた放送の後、ドアが閉まり電車がゆっくり動き始めた。
都内の大学に電車で通い始めて三か月。初夏の日差しが燦々と照りつける中、片道約40分の通学時間の殆どを、僕は小説を読む事に費やしていた。
僕の名前は小野田 拓斗。身長170cm、体重は63kg。顔はフツメン……だと思う。特に取り柄というものは無いが、小さい頃から武道に励み、厳格な父の教えもあって正義感は強い方だと自負している。
ただ、僕は女性と接する事が苦手だ。思い返せば高校三年間、一切女子との接点がなかった。春まで通った高校は男子校で、一学年約300人全員が男子。
そのせいなのだろうか? 大学で女子から話し掛けられても恥ずかしくて顔を見る事も出来ない。それどころか、腕は震え、動悸は激しくなるばかりだ。
だからと言って女性が嫌いという訳ではない。 僕だって、本当は彼女が欲しいと思っている。
そんな僕は今、通学電車で見掛ける女の子の事が、とても気になっている。
『次の停車駅は~星葉~、星葉~』
車内アナウンスが流れ、電車は次の駅に差し掛かる。
今日もいるかな……。徐々に近付いてくるホームに目を凝らす。ゆっくりと進む電車の中から、紺色のブレザーの制服を着た女の子を探す。
――いた!
ホームには、今日も同じ位置で到着を待つ紺のブレザーの女子高生が立っていた。
女の子としては背が高くて170㎝近くあるだろう。スラッとしたスタイル。整った小さい顔で、白く透き通った肌。少しウェーブの掛かった黒髪を、肩甲骨の辺りまで伸ばしている。
彼女は乗り込む時、僕をチラッと見てから、反対側の手すりに掴まった。
僕の正面、2mも離れていない位置に彼女の横顔がある。
今日も彼女は背筋をピンと伸ばし、凛とした佇まいで車窓から外を眺めている。
彼女に気付いたのはいつだったか? もしかしたら、ずっと同じ車輌に乗っていたのかもしれない。
確か4月中旬には彼女をよく見掛けるなと思い、5月に入った頃にはいつも彼女を探していた。
いつの事だったか、偶然目が合った時、彼女がほんの少し首をかしげて微かに微笑んだ。その微笑みを見た瞬間、僕は彼女に釘付けになってしまった。
またあの微笑みが見たいな。
この子が僕の彼女になってくれたらな……
どうすれば彼女と親しくなれるのだろう?
話し掛ける? いつ? どこで? 何を?
電車の中で話し掛けたとして、もし警戒されてしまったら気まずい。
駅のホームで話し掛けて、逃げられてしまったらどうしよう。
そもそも何を話したら良いのか、全然わからない。
仮に話し掛けたとして、明確に拒絶されてしまったら……ショックだ。
そう思うと全然勇気が出なくて、彼女をチラチラ見るだけ。
これまでも何度か話し掛けようと思ったけど、いざその時になると言葉が出てこない。
今朝も電車を降りていく彼女の後ろ姿を、ただ見つめるだけしか出来なかった。
その日の帰り、電車がターミナル駅に到着すると、見慣れた紺色のブレザーが目に入った。彼女だ。
帰りも同じ電車か……
さほど珍しい事ではない。
朝ほどではないが、帰りの電車でも彼女を見掛ける事は多い。
僕はちょっと運命を感じている。
彼女は混雑した車内でキョロキョロと周囲を見回した後、僕の左斜め前、少し離れた位置に立ち、つり革に手を伸ばした。僕には気付いていないようだ。
斜め後ろから、彼女を見つめる。僕が気にしているだけで、彼女の方は僕の事なんて何とも思っていないかもしれない。単に僕が自意識過剰なだけと思うと、ちょっとヘコむなぁ……
そんな事を考えていると、満員の電車はゆっくりと動き出した。
電車が動き出して10分程経った頃、彼女がモジモジしだした。
ん……どうしたんだ?
彼女は、僕が手を伸ばせばギリギリ届く位置で、しきりに体を振って何かから逃げるようにもがいている。
横顔を伺うと、真っ青な顔をして俯いてる。
何だ、何か凄く嫌な予感がするぞ。
僕は読んでいた文庫本にペンで書き込み、彼女の目の前へ突き出した。緊張で腕が震えるが、今はそんな事を気にする時ではない!
『チカンか?』
彼女はハッとして振り向き、そして泣きそうな顔で小さく頷いた。
やっぱりそうか。彼女に酷いことするなんて……。
僕は腕を思い切り伸ばし、再び俯いてしまった彼女の二の腕を掴んで引き寄せた。
隣にいたサラリーマン風の男が迷惑そうに咳払いをしたが、構うもんか!
「もう大丈夫だよ。僕のそばに居ればいい」
彼女は小さく頷いた後、僕のシャツの袖をギュッと掴むと下を向いてしまった。手が小刻みに震えているのが伝わってくる。
怖かったろう……。
もう心配はいらないよ。
僕が守るからね。
彼女がさっきまで立っていた辺りを見回すと、サラリーマン風な男ばかりだった。
一人ずつ表情を伺うと、その中の一人の男が苦虫を潰したような顔をしている。男は、僕と目が合うとサッと視線を逸らした。
こいつが痴漢か!
男は40才位のサラリーマン風、身長は僕と同じくらいで痩せ型、右頬にほくろがある。
僕は男の顔を強く脳裏に焼き付けた。
それから僕は、痴漢男が彼女に近付いて来やしないかと、ずっと警戒していた。その間も彼女は俯いたままだった。
やがて電車は彼女が降りる駅に到着すると、彼女は会釈をして降りて行った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
私は星葉という駅から都内の女子校まで電車通学しています。私は身長が168cmあって、その背の高さを活かしてバスケ部に所属しています。これでもレギュラーで4番を背負っているんですよ。
ただ、部活をしていると帰りが遅くなってしまい、帰りの電車に乗るのはいつも7時頃です。当然帰宅ラッシュで、いつも満員です。
最近、痴漢が出るっていう噂を聞いてから、一人で電車に乗るときは後ろが気になってしまいます。
同じクラスの子達が休み時間におしりを触られたとか胸を揉まれたとか、大きな声で話しているのが聞こえたけれど、私は知らない人に自分の体を触られるなんて絶対に嫌‼
だから少しでも空いているところを求めて、朝は最後尾、帰りは先頭車両に乗っています。
そんな私ですが、今すごく気になっている人がいるんです。
二年生になってから見かけるようになった人で、たぶん大学生なのかな? 電車に乗るともうそこにいて、私がおりる駅に着いてもそのまま乗り続けています。
私が利用している路線は、地下鉄と相互乗り入れしていて、私がおりるターミナル駅の先にまだ15の駅があります。
ずいぶん遠くまで通っているのかな?
その人は優しそうな顔をしていて、時々目が合うんですけど、吸い込まれるようなすごく綺麗な目をしているの。
同じ電車にあの人が乗っているだけで、通学時間がステキな事のように思えてきます。
あの人と同じ場所にいる。
あの人がそばにいる。
そう思うだけで胸が熱くなってきて、あの人のそばに居られたら、もうそれだけで充分。
この間まではそう思っていました。
でも、今はあの人の隣にいたい。
声が聞きたい。
優しく微笑んでほしい。
……あの人の特別な存在になりたい。
いつの間にか、もう好きになってしまっていたみたい。
「だったら告白すればいいじゃない」って同じ部活の子は言うけど、話した事さえ無い相手にいきなり告白なんて……。
そんな勇気、今は持てないけど……それでもいつかはあの人と仲良くなりたい。
そうこうしている内に電車が到着します。
今日もあの人は……いました。
乗り込む時に顔をチラッと見てから、わざとあの人の視界に入る位置に立ちます。
時々様子を伺うのですが、バッタリ目が合ってしまう事があって、つい恥ずかしくて目を逸らしてしまいます。私は胸がドキドキですが、きっとあの人もドキドキしてくれてると思うんだけどなぁ……。
話し掛けて来てくれないかな~なんていつも思っています。
でも本当は、自分から話し掛ける勇気が欲しい!!
そう思いつつも、今日も何事もなく私は電車を降ります。
今日も部活があって、帰りの電車に乗るのは7時頃。
朝ほどではないのですが、帰りにもあの人を見つけることは多いです。
いつもと同じ、先頭車両の一番前のドアのところの列に並んで電車を待ちます。
ターミナル駅ですから乗り換えの為、多くの人が降り、同じくらいの人が乗り込みます。
こんな時間ですから電車はほぼ満員です。私は後ろから押されるように奥へと入りました。
あの人は……いないみたい。
ちょっと残念。
電車が動き出してから10分ほどして、恐怖が私を襲いました。
最初は後ろの人が荷物を持ちかえたのかな? と思うくらいの感じで、お尻のあたりに腕が当たりました。
でも、それだけでは終わらなかったのです。少しずつ少しずつ、けれど明らかに私のお尻を撫でまわすように手が動きます。
えっ! 痴漢? まさか本当に痴漢に遭うなんて!
私だって運動部で体は鍛えているんです。
そんな不届きな奴が現れたら捕まえてやるって思っていたのですが、満員電車の中では体の向きを変えることすら出来ません。
痴漢は執拗にお尻を撫でまわします。
私は、体を左右に振り少しでも逃れようとするくらいの細やかな抵抗しか出来ませんでした。このまま痴漢に体を触られ続けるのかと思うと気持ち悪くなってきます。
その時でした。
俯いた私の目の前に小説? を差し出す手が見えたんです。
小説なんて……と思ったのですがそこに『チカンか?』と書いてあったので、その腕の主をみると……
あの人でした。
真剣な眼差しで私を見つめるあの人が、そこにいたんです。
「助けて!」と言いたいけど、恐怖で震えて言葉が出ません。あの人の問いにうなずく事が精一杯でした。
すると、あの人はおもむろに私の腕を掴むと、一気に引き寄せてくれました。
「もうだいじょうぶだよ。僕のそばにいればいい」
心配そうな顔をしながら私を隣に立たせてくれた後、優しく微笑んでくれました。
その微笑みを見た瞬間、胸が高鳴ります。
~ 好き、やっぱりあなたのことが好き ~
無意識に彼のシャツの袖をギュッと握っていました。痴漢された恐怖はどこへやら、胸が暖かくなってきます。
でも、さっきから震えが止まりません。
彼の方をチラッと見ると、さっきまで私が立っていた辺りを物凄い顔をして睨んでいました。
あんな優しそうな人がこんな怖い顔をするなんて……一目見ただけで彼が怒っているのが分かります。
もしかして……もしかしなくても私のため? そう思うと胸がさらに熱くなってきます。
その後も彼は私の後ろを気にしてくれているみたいで、時々こちらを振り向いて警戒してくれます。
そのお陰か、何事もなく時間は過ぎていきます。
やがて私が降りる駅への到着が近づいてきました。
何か言わなきゃ!
そう思っても何を言って良いのかわからないまま、無情にも時間だけが過ぎていきます。
そうしているうちに電車は到着しドアが開きました。
私はお礼も言えずにお辞儀だけして、彼から逃げ出してしまいました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼女が痴漢に遭った翌日、いつもの通学電車に彼女の姿はなかった。
そうだよな……。あんな事に遭った場所に乗ろうなんて、普通は思わないだろう。
彼女のいない車内で、普段通り文庫本を読む。
しかし、集中出来ない。
全然中身が頭に入ってこない。
頭に浮かんでくるのは、俯いて泣きそうな彼女の顔ばかりだった。
さらに翌日。
今日もいなかったら、もう会えないかな……。
彼女が立っているはずの駅に電車が到着する。
今日も彼女はいない。
やっぱり居るわけないよな。
そう思うと途轍もない喪失感が襲ってくる。
プシューと音を立てドアが閉まる。
静かに電車は動き始めた。
ハァ、何か空しいな……
文庫本を開き、無理して読み進めようとしていると、何か隣から女の子の声が聞こえる。
「あの~」
ハァ……空しい……
「あのっ!」
えっ⁉ 僕に話しかけてるの?
声のする方へ振り向く。そこには笑顔の彼女の姿があった。
「この前はありがとうございました!」
驚いた。到底いるはずがないと、半ば諦めていた想い人がそこにいたから。
「いえ、男として当然の事をしただけです」
冷静を装って答える。
「それでも嬉しかったです。ありがとうございました」
もう会えないかも? と思っていた人が僕に話し掛けている。
これ、夢じゃないよな?
「あのっ、大学生ですよね?」
「そうですが……」
「あっ、私、Y女子高に通っています、川辺 菫っていいます」
「僕はN大学一年、小野田 拓斗です」
それから彼女…川辺さんと学校の事、部活の事、電車の事など話した。
驚いた事に、川辺さんの住んでいる場所が僕の家と割と近くて徒歩で15分くらいのところだった。
それなら少し歩く時間は長くなるが、同じ駅から電車に乗れば一緒にいられるかな、なんて考えていると……川辺さんが絞り出すように話し始めた。
「私、この間の事もあって、帰りの電車が怖いんです。満員だし……」
「やっぱり怖いですよね。そうだ! 帰りの時間も同じくらいだし、ターミナル駅のホームで待ってますから一緒に帰りませんか? 川辺さんが嫌でなかったら……」
「え?」
川辺さんは心底驚いた顔をする。まずい、調子に乗りすぎたか?
「あっ、突然こんなこと言ってしまってごめんなさい。やっぱりこんな見ず知らずの男と一緒じゃ嫌ですよね?」
「いえ、そうじゃなくって。ご迷惑ではないですか?」
「迷惑だなんて……。家も割と近いし、僕がお守りします!」
「嬉しい……。ありがとうございます! それじゃお言葉に甘えてお願いしていいですか?」
川辺さんは満面の笑みを浮かべ、そう言った。
「喜んで‼」
この笑顔を守れるなら、お安い御用だ。
ちょうどその時、電車がターミナル駅に到着した。
「それじゃあ、また夕方に……」
川辺さんはペコりとお辞儀をして、電車を降りて行った。ホームに降りてからも、こちらに向かって手を小さく振っている。やっぱり可愛いな。
再び電車が動き出す。
何という、何という幸運‼ これ、夢じゃないよな?
トントン拍子に話が進み、彼女…川辺さんと一緒に帰れる事になってしまった。
近くで見ると物凄く可愛かったな~。声も可愛かったし。
ガッツポーズで「ヨッシャーー!!」って叫びたいくらい、いい気分だ。
そう言えば、川辺さんと普通に話せたな……体の震えも無いし。これを機に苦手意識を克服出来るといいんだけど。
そして夕方、時刻は6時30分。
丸一日授業が全く頭に入らなかった僕は、ターミナル駅のホームで川辺さんを待っていた。
流石に早すぎたか……
徐々にホームに人が増えていく。
川辺さん、ちゃんと僕を見つけられるかな……
暫く待っていると、笑顔で駆け寄ってくる川辺さんの姿が見えた。
「すいません、お待たせしました」
「い、いえ。それほど待ってないですよ」
やがて電車がホームに到着し、ドアが開いた。
僕は混雑の中、川辺さんを壁際に導き、隣をカバーするように立った。これなら痴漢に遭うことも無いだろう。
ひとまず安堵していると、電車が動き出した。
僕は川辺さんと同じ駅で降りる事に決めた。彼女が嫌な思いをせずに済むなら、多少歩く距離が長くなったところで安いものだ。
本音を言うと、少しでも長く一緒にいたいからなのだが……。
電車が動き出して10分ほど経った頃、後方からくぐもった女性の声が聞こえた。
「やめて……ください……」
小さな声だったが川辺さんにも聞こえたようで、僕たちは目を見合わせると、声が聞こえた方へ目を向ける。
サラリーマンの間に小柄な女子高生がモジモジしていた。どうやら声の主は彼女のようだ。
痴漢……だよな?
彼女の周囲を見渡すと、あの男がいた。
右頬のほくろに見覚えがある。
川辺さんを痴漢したあの男だ!
「ここにいて!」
川辺さんに耳打ちし、ゆっくりと痴漢の方へ動き始めた。
今日はいつもより混雑していないため、何とか移動出来るだけの隙間がある。
どうやら痴漢男は獲物に夢中のようで、僕に気付く様子はない。
後ろへ振り返ると川辺さんがスマホをカメラモードにして僕に向かって頷いた。
ついてきてしまったのか⁉
川辺さんだって恐いだろうに……
でも、僕が痴漢とやりあう時、被害者の女の子を支えてくれると助かると思い、頼むぞ! と意思を込めて一回頷き返す。
ゆっくりと痴漢男の斜め後方へ回り込む。
男は目の前の獲物に夢中で、いまだに僕達に気付いてはいない。女の子を見ると、俯いて泣いている。
この痴漢男、許せない!
「おい! 何やってんだ!!」
痴漢男の腕を、力を込めて掴む。
「な、何の事ですか! 私は別に……」
「とぼけるなよ! この痴漢野郎!」
僕は男の腕を背中に回し、そのまま捻り上げた。
痴漢男は拘束から逃れようとジタバタ暴れる。だけど、この腕は絶対に放さない。いつの間にか周りにいた乗客も加勢してくれて、逃げられない状況が出来上がっていた。
被害に遭った女子高生は、川辺さんがしっかりと支えてくれている。
次の駅に着くと、近くに乗っていた男性が駅員を呼んできてくれた。
痴漢を引き渡し、駅舎の事務所に案内されて事情を訊かれた。
事務所の中で一通り説明が終わり、電車に乗る。
今回被害に遭った女子高生は、僕達より先に話が済んだらしく先に帰ったと駅員さんから聞いた。
再び電車に乗ってからというもの、どうも川辺さんの様子がおかしい。あれから一言も言葉を発していない。
痴漢男を駅員に引き渡してから、ずっと考え事をしているような思い詰めた顔をしている。
星葉駅に到着しても、川辺さんは相変わらず無言のままだ。それでも僕のシャツをギュッと掴んだままホームを歩く。
改札を抜けると、家路を急ぐ人々、居酒屋の前で大声で騒いでいる大学生と思しき集団、スマホを凝視したまま迷うことなく歩いていくOLさん……。
さまざまな人が行き交う中を、川辺さんは無言で歩いていく。僕はシャツを掴まれたまま、連行されるような感じになっている。
駅前の喧騒を抜けると、徐々に外灯が少なくなる。街灯が等間隔に照らす道を歩く。
住宅街に入り、街灯が一段と少なくなり暗くなっても、川辺さんは俯いたままだった。
僕は何か嫌われるような事をしてしまったんだろうか?
公園の横に差し掛かる。僕は相変わらず連行されている感じなのだが……。
本当なら嬉しくて仕方がない状況なのに、何でこんなに気まずいんだろう?
このままじゃ……このまま川辺さんを送り届けたらそれで終わってしまうような気がする。
そんなの、僕は嫌だ。
何とかしないと……。
思い切って、切り出す。
「川辺さん。僕、何か君を怒らせるような事した?」
川辺さんは歩みを止めた。
「僕、女性と話す事も久しぶりで、友達からもよく鈍感だって言われるんだ。でも、きっと僕は川辺さんを怒らせてしまう様な事をしてしまったと思う。だけど、分からないんだ。もう一度聞くよ。僕は何か君が嫌がる事をした?」
彼女は俯いたままだ。
暫しの沈黙の後、
「…………した」
「えっ?」
「嘘。……してない」
どういうことなんだ?
「川辺さん、僕こんなの嫌だよ。もっと君と仲良くしたいよ。………もっと君と親しくなりたいんだよ!」
これは僕の正直な気持ちだ。
すると、川辺さんは俯きながら小さな声で答えてくれる。
「あなたは何も悪くないの。……私のわがままなの。私の方こそ嫌な思いさせてごめんなさい……」
「ん……。どういう事? 教えてくれる?」
どういう事だろう? 僕は彼女をジッと見つめる。
やっと顔を上げ、見えた彼女の瞳は潤んでいた。
公園のベンチに川辺さんを導き、隣に座る。
腕一本位の彼女との間隔……だけど、とても遠く感じる。
川辺さんは静かに話し始めた。
「あの時ね、痴漢から私を助けてくれた時、私だからって思ったの。私じゃなかったら助けなかったかもって思っちゃったの。それでも今日、あなたはほかの子も助けた」
「それは、酷い事されている子が目の前にいたら、誰だって助けるでしょ?」
川辺さんは首を横に振ってから話を続ける。
「ううん。私の時も今日も、周りの大人は誰ひとり助けようともしなかった。皆見て見ぬふりをしているだけだった。あなただけ、私に手を差し伸べてくれたの」
「…………それは……」
「私だから、私だから助けてくれたんだって……私だけ、あなたの特別だって思っちゃったの」
「……」
「それでもあなたは今日、私じゃない他の子も助けた。……それで私が特別じゃないんだ。あなたは優しい人だから、目の前に困っている人がいたら誰でも助けるんだって思っちゃったの」
川辺さんは目に涙を浮かべている。
「これは私のわがまま、エゴだって分かってる。でもあなたが他の子を助けているところを見た時、胸の奥が冷たくなったの。冷たくなって、心が凍えそうだった」
「えっ」
――私が特別?
――心が凍える?
もしかして川辺さんは僕の事……。
「聞いて!」
川辺さんは立ち上がり僕の正面に来て、一度深呼吸をしてから静かに話し始めた。僕も立ち上がって彼女を見つめる。
「二年になってからいつも乗る電車に、凄く優しい目をした男の人を見掛けるようになったの。私、その人の事が気になって、チラチラ見るようになったの。それで時々目が合うと、その人は穏やかな顔で私に微笑んでくれて……。
その微笑みを見たらもう私ダメ、好。私、嬉しくって泣いてた。
あの時は電車の中に居ないと思ってたのに、居てくれた、助けてくれたんだーって」
川辺さんの目から涙が零れる。
「次の日は怖くて……満員電車が怖くて学校を休んだの。お母さんには頭が痛いって言って休んだんだけど、本当は……怖かったの」
それで昨日はいなかったのか……。
「でも私ったら、その人にお礼も言ってない」
「それは今日……」
「うん。勇気を出して来てよかった。ちゃんとお礼も言えた。
……でもね、私もっと大事なこと、あなたに言いたいの……」
川辺さんは僕の目をしっかりと見つめた。
これって告白だよな?
だったら男として先に言わなきゃ。
「待って! 僕も、君に言いたい事があるんだ!」
こんなにも……こんなにも誠実に思いを打ち明けてくれたんだ。僕も誠意をもって、この気持ちを伝えよう。
「僕が大学に通うようになって、いつも同じ電車にとっても気になる女の子がいたんだ。その女の子はね、紺のブレザーを着て、背が高くて、いつも凛として窓から外を見ていた。
僕はその子の事が気になって目が離せなくなったんだ。いつも本を読むふりをして、その子をチラチラ見てた。時々僕の視線に気付いて僕の方に振り向くと、くいっと首をかしげてくれてさ……。その仕草も風に揺れる一輪の花って感じて、とても愛しく思ったんだよ。ハハッ、何か恥ずかしいな、こんな気障なセリフ……」
川辺さんは僕をジッと見つめている。
「あの時は同じ電車に乗っていてホントに良かったよ。僕が居ないところであんな事になっていたらと思うと……。君が酷い事されてるって分かった時、本当に腹が立った。
でも、とにかく君を助けようと思った。僕が誰かも分からないだろうから怖がらせちゃいけないと思って、本に書き込んで君の前に差し出したんだ」
あの時のように、川辺さんの二の腕を優しく掴んだ。
「君を引き寄せて声をかけてから、ずっとシャツを掴んでいたから僕に気付いてくれたんだと思ったよ。君を助ける事が出来た、そう思うと自分が誇らしかったんだ。
でも、君に酷い事をした奴は誰だ! って思って周りを見回したら、明らかに挙動不審な奴を見つけたんだ」
「それが今日の……」
「そう、あの男だ。あの時に加えて今日の事だ。きっと痴漢の常習者だろう。何より君に……僕が大好きな君に酷い事した野郎だ。絶対捕まえてやるって思ったんだよ」
「えっ? ……今何て言ったの?」
今こそ、今こそ精一杯この思いを彼女に伝えよう。
「川辺 菫さん。僕はあなたが好きです。僕にとって、あなたは特別なんです。僕と付き合ってくれませんか?」
川辺さんは両手で口を押さえて、それでも目から涙がこぼれた。
「……ずるいよ、先に言っちゃうなんて……」
「返事をもらえますか?」
「はい、私もあなたが大好きです。喜んで!」
川辺さんは、頬に涙の跡を残したままにっこり微笑んだ。
この時の笑顔を僕はずっと忘れないだろう。
再びベンチに腰をおろすと、川辺さんは僕の隣にピッタリとくっついて座った。
「お互い好きだったんだ……。いつから?」
「4月。あなたと目が合った瞬間に、吸い込まれるような感じがしたの。それで瞬きしたんだけど、もうその時は好きになってた」
「僕も4月の内にはもう君の事が凄く気になっていて、ゴールデンウィーク明けに目が合った時に、君がニコッと微笑んだんだよ。それを見た時に好きだってハッキリと思ったんだ」
「嬉しい……」
「じゃあ、今から菫……ちゃんって呼んでもいい?」
「ちゃん、は要らない」
彼女は頬を膨らませた。
「す、菫、これから宜しくね!」
「はい、こちらこそ宜しくお願いします。拓斗さん!」
菫はにっこり笑って手を差し出した。
人生初の恋人繋ぎで、公園を出て家路に就く。
僕のもとに咲いてくれたスミレの花をずっと大切に守っていこう。
【 Fin 】