01話 出会い
とあるアパートの一室に男がいた。
その男は独身でとにかく女性と縁がなかった。
男は欲した。
「もう誰でもいい。姿かたちが美しく見目麗しい女性なら、人でなくてもいい」
――愛されたいのだと。
男はやけ酒から出た身勝手な妄想にふけながら寝入った。
外にはしんしんと雪が降り始めている……。
酔った頭に、ノックの音が響く。もしかしたら本当に頭の内で鳴ったのかもしれない。
夢から覚まされた男は、鳴り止まぬ音に不機嫌さを覚えつつ、ぶっきらぼうに玄関のドアを開ける……と、そこには女が居た。
黒地に艶やかな蝶。それを絡め捕らんとする蜘蛛の巣が幾重にもかかる銀糸。
そんな猟奇的な柄の着物を着こんでいる。
手には漆色の和傘。なぜだか内側は朱色になっている。
そして何より、そんな不可思議な格好さえ気に留まらない程の美女であった。
「コンバンハ……」
艶やかな女は静かに、ひっそりとそう言った。
「あっ、どう……」
あまりにも場違いな人物の登場に、我を忘れて見惚れていることに気付き、反射的に挨拶を返そうとしたが、
「今晩は、あなたなのですね」
……どうやらニュアンスが絶望的に違うらしい。
そこで一つ思いつくことがあった。訪問先を間違っているだけなのかもしれない。いわゆる、寒い冬に先駆けて、身も心もホッカホカにする春をデリバリー的なあれである。その説明なら納得いく。
そうと決まれば、最大限の労力を振り絞ろう。
俺は今朝から剃らずにいた無精髭を気にしつつも、にこやかな笑顔を浮かべる。
「あのー、自分で言うのもなんですけど、お家間違えているんじゃないですか」
これで厄介払いできる安堵と若干の名残惜しさを感じつつ、予定調和な返答を待っていたのだが、女は口元に手を当て目を細めて、
「あら非道い男。呼んだのはあなたにでしょうに」
女はくすくすと微笑している。
「欲望の言の葉が糸にかかったものですから、足を運んでみたのよ」
どうやら引き下がるつもりは毛頭ないってことは理解できた。だけど、それ以外は何を言っているのか全然わからない、やばい。
「ねえ、外は寒いわ。上がってもいいかしら」
さっきから冬の凍てつく外気が部屋に吹き込んでいることに、言われてようやく気づく。
これではまるで雪女が訪ねて来たみたいだ。
その喩えはあながち間違いではなかったのだが、そのことを知るのはまだ当分先である。
根負けした俺はとりあえずこの女を、四畳半の部屋に上げることにした。
「どうぞ粗茶ですが」
「ふふ、いただきますわ」
湯気が立つ熱々のお茶をちゃぶ台に載せる。
女はこの部屋唯一の座布団の上に正座で座っている。そして、両手で茶碗を持つと、するすると体内に流しこむ。
「ご馳走さま、美味しかったわ」
あっという間に飲み干してしまった。
「……熱くなかったですか」
自分で入れといて当然知っているが、一応聞いてみた。
「そんなことないわ、ただもっと熱いものを知ってるだけよ」
うっとりとした熱い視線がこちらに注がれるも、思わず視線をそらしてしまう。
本来であれば、意味深で淡い期待を抱いてもいい状況なのだろう。
今のは視線には、寒気を覚えた。それは決して今が冬だからではない。
とりあえず俺は平静を装いつつ対応することにした。
「あのー、それでご用件ってなんでしょうか」
「誰でもよいとおっしゃるから」
「えっ」
「あなたが誰でもよいと、人でなくともよいとおっしゃるからこちらに参ったのよ」
ぼんやりと思い出すことがある。
さっき、やけ酒を煽っていたとき、そんな身勝手な戯言を口にしたような気はする。
しかし、そんなものは妄想の範疇に収まっている。誰にも迷惑はかけてはいないのだ。そのぐらいの夢は好き勝手に見させて欲しい。
なんとなく空気が張りつめた気がして顔を上げると、女は言う。
「率直に言うわ。わたし、あなたのことをご馳走になりにきたのよ」
女がこちらを見つめる、その漆黒の瞳に妖しい紅い光が宿っている。
……何言ってるか全然わからないが、この女は関わったら確実にやばい奴だ。得体の知れない恐怖を感じる。
生命の危機を知らせる警鐘がさっきから頭の隅で鳴り響いている。
ここは丁重にお断りして、帰ってもらおう。
しばらく、視線が交差する。
酔いは醒め、二日酔いの頭痛でズキズキ痛む。
ようやく決心を固め、ちゃんと意識して発声する。
「申し訳ないですが、お引取り願えませんか」
「さあ……。どうしようかしらねぇ」
女のその華奢な白い指がちゃぶ台の木目をなぞっている。
俺の固い意志もあっけなくあしらわれてしまった。
……これじゃあ埒があかない。
「ちょっと便所に」
とうとうこの空気に耐えきれなくなった俺は、インターバルタイムに入る。
すると男がトイレに入るのを見計らい、女は袖を畳に落とす。
「物見」
そう言うと、袖の下からもぞもぞと動き、一匹の小さい蜘蛛が顔を覗かせる。
「覗いてきなさい」
冷然と命令を下すと、蜘蛛は男の入ったトイレへと向かっていった。
特に用を足すでもなく便所のフタに座っている。
「はあ、どうしよっかなあ」
女の発する得体のしれない空気に耐えられず、先程からトイレに篭城している。こんだけ長居してると普通なら心配されてもおかしくないだろう。
……通報したほうがいいんじゃないか。
それが長い時間をかけてようやく出した答えだった。
そう思い立ち、ズボンのポケットを探ってみたが、携帯が見当たらない。記憶をさかのぼり思い出したのは、ふて寝したまま、畳の上に置きっぱなしだったことだ。
「忘れてた」
自らの爪の甘さに頭を抱えてしまう。そうして俯いていると足元に何かの影が這っているのに気づく。
それは蜘蛛だった。
「うおっ!」
思わず声を出して驚いてしまった。
それもそのはず俺は虫が嫌いなんだ。特に蜘蛛が大の苦手。
トイレに流してやろうと頭によぎったがその考えはすぐに改めた。なんだかこのちっこい蜘蛛に今の自分の境遇が重ねてしまったのだ。それに助けたら恩返しくらいありそうだし。
俺は手に触れないように、蜘蛛をそっとトイレットペーパーに包むと、急いでトイレのドアを開ける。
「あら、 物見」
女が何かを言ったような気がするが、そっちのけにして勢いよく窓を開け蜘蛛を外に逃がしてやった。
女はなんとなく今の成り行きを見ていた。少しばかり目を見張るような表情をしている。
「ふう、これでよし」
「……殺さなかったんですのね」
「ああ、むやみやたらに殺生することもないしな」
なんの説明もないのに今の流れを理解している点は、スルーすることにした。
俺はひと仕事終えた充実感に流れた(冷や)汗を拭い、腰を落ち着ける。
すると、女の様子がなにやらおかしい。いや、おかしいのは第一印象からそうだがそれでもおかしい。|俯いて何かを堪えているように見える。
「アッハッハッハッハ!」
女は突然高らかに笑いだした。
白い歯が蛍光灯に照らされ光っている。
「ふふ……、面白い、なんとも面白いわ。中々よい矜持をお持ちね、あなた」
「いや矜持っていう程のものでも……」
一体、今の行為の何がこの女の琴線に触れたというのか。蜘蛛を助けたことにそんな感動したとでもいうのか。
「いいわ……、わたしもその興に付き合ってあげる」
「はぁ」
依然として呆然とする俺。そうする間に女はちゃぶ台の横に膝を正して座る。
そして、畳を手をつき深く座礼してこう言ったのだ。
「本日よりこちらにご厄介になります。名はイトと申します」
「ええっ!」
「よろしくお願いしますわ」
そう言って、イトは軽く笑う。
こうして、俺とイトとの奇妙な同居生活が始まった。