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秋の話  作者: ¡no pasarán
8/21

緑の海


 ──サン……トレノ……。


 コートドール出身の大柄な男は、胸壁を背に息も荒く、ただその言葉を心に唱え続けていた。

 間に合わせのゴーグルは必要以上に頭を締め付け、マスク──中和剤を染み込ませたフランドルソックス──は僅かな呼吸しか許してくれない。


 ──守り給え……守り給え……。


 男は給弾口へ最終弾を押し込み、ボルトハンドルを慎重に引いた。周囲で交わされるあらゆる叫びに集中しつつ、今度はハンドルを戻し、初弾を装填する。

 ゴーグルは薄く曇り、マスクは息をする度に湿って息苦しい。男には、自分がまるで海の底に居るかのように感じられた。そして溺れるわけにはいかないと、一歩踏み出した。


 塹壕は黄緑の霧に没し、数歩先も見えない。男は小銃の先端に取り付けた銃剣で、霧を切るようにして進んだ。霧の中には叫び、呻き、そして銃声が充満し、身に付けた弾帯や水筒がぶつかり合う響きがそこかしこから聞こえてきた。敵か、味方か、どちらかが駆け巡っているのだ。

 霧の先、その下に手が見える。完全に開かれていることからして、もう息はなさそうだ。男は銃剣を向けつつ進み、袖の色を見て味方だと認めた。緩くカールした口髭の下からは緑がかった泡が溢れ、赤黒い斑点が魚卵のように散っている。男は見ていられず、目を背けた。


 ──まったく、まともじゃねえよな。


 男は毒ガスというものをよく知らなかった。ただそれが兵器であることはわかっていた。そしてこのように酷い最期を与えるものを兵器とするのなら、使う側も余程覚悟してのことだろうと。

 それはつまり、同じように、もしくはより残酷に扱われても、甘んじて責めを受けるだろうという暗い確信だった。

 男はすぐその場を離れ、毒の霧の中を待避壕へ向かった。その先には第二線へ通じる連絡壕がある。

 ジグザグに掘られた塹壕の角に差し掛かり、胸壁に背を預ける。荒い息を整えていると、装具が揺れて発する特徴的な音が聞こえ、こちらへ近付いて来るのがわかった。音の主は角の反対側まで来て止まり、くぐもった声で短く言葉を交わした。それは男のよく知る言葉であり、また異なる言語のものでもあった。

 ──サン・トレノ。

 徐々に、黒い缶詰のようなものが現れ、そこにクリーム色のマスクが続く。そして、恐らく二つ並んでいるだろう円形ガラス(ゴーグル)の片方だけが明らかになって、角のこちら側を覗き込んだ。一瞬、円形ガラスの向こうに青い瞳が映る。男はそこに、少年を見た。

 ──守り給え。

 突き出された銃床が円形ガラスを叩き割り、瞳を潰す。引き抜かれた銃床を追うように赤黒い血が吹き出し、片目を潰された兵士は短い悲鳴を上げて転がった。その脇腹を勢い良く踏み付け、男は角の反対側へ躍り出る。

 振り下ろされる銃床。男はそれを小銃で受け止めると、そのまま兵士を胸壁へ蹴り飛ばし、みぞおち目掛けて銃剣を突き刺した。

 撃つか、もしくは心臓へ突き上げてやろうとも考えたが、どうにもそれでは苦痛が少ないように思えた。男はゴーグルの奥で見開かれた瞳を睨み付け、やはり何かが足りないし、足りないのであれば付け足してやるべきだと確信した。

 男は銃剣を突き刺したまま、兵士が被っている角付き帽(ピッケルハウベ)(つの)を掴み、力任せに前へ引き剥がそうとした。しかし、上手くいかない。そこで、マスクの先端、缶詰のようになっている部分を掴み、上へ引っ張ってみる。今度は上手くいった。


 ──ジュール。


 そこに、男のよく見知った友の顔があった。



   緑の海─おわり

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