木枯らし
毛むくじゃらの獣は本能に勝てないらしく、よりおししい匂いの方へ体が引きずられて行くようだった。
獣は、もっと大きな獣であれば一跨ぎ出来るようなでこぼこでも、まるで小振りな丘や谷のようにしていかねばならない。段々と獣の側へ引きずられる頭では、それが面倒だとかということは消え失せて、ただただ一歩々々が幸せへ近付くものとして胸が高鳴ってしまうのである。
獣はやはり、常に目の前にある鼻先の三本対の線──それは髭で、ネズミのものだ──のことも、もう気にならなくなった様子で、むしろこれであまり良くない目を補って余りあることに驚いているぐらいである。そうしてネズミは尻尾で地面を叩いては丘を登り谷を下り、匂いの濃くなる方へ近付いていった。そこは、もっと大きな獣たち──臭く、泥だらけの人々──でいっぱいの穴倉から遠く離れていて、地面は目茶苦茶になって固く鋭い糸が突き出し、同じ様に固く冷たい欠片がそこかしこに散らばっている場所だ。
──まぶしい。
ネズミは一つの丘、あまりにも小さい土砂の盛り上がりの上に立って目を細めた。鼻先のもっと先には一際大きな谷──ネズミにとってはもはや盆地といえたが──が広がり、散らばる欠片が強く照らされ輝いていた。
──この灯りは何処から来ているのだろう?
つぶらな瞳はすぐにその源を探り当てた。空は何時の間にか暗く、夜が来ているのに、一点だけお日さまのように明るく輝いている処がある。そのおかしなお日さまは段々と落ちて来ているらしく、地面に伸びる影も次第に長くなっていく。ネズミは、夜のお日さまが暮れたら、次は一体何が来るのだろうと思った。でも、少し頭を落ち着かせてよく考えてみると、どうも違うように思えた。
──お月さまだ。
ネズミは、ようやく輝きの正体を探し当てて満足した。夜にお月さまがあるのは当たり前のことだし、お月さまが沈めば朝が来るのだ。何もおかしなことはないのだ。
ネズミは、毛むくじゃらでそこら中を這い回るにしては珍しく、見ているだけで胸が暖かくなるような気持ちでお月さまが沈んでいくのを眺めていた。でもお月さまは空を少し下った辺りで段々萎んで、遂には消える様になくなってしまったし、朝も来なかった。ネズミが小さな目をまばたいて、辺りを見回してみても、ただ夜が沈んでいるだけだ。
ネズミはあまり良くない頭で考えてみたものの、結局、匂いが気になってそのまま盆地へ駆け下りていった。盆地の底には別の、強い臭いが溜まり、それはネズミでもあまり好きなものではなかった。早く抜けようと急いでも、思ったよりでこぼこしていて足元がおぼつかない。色々な欠片や固くて鋭い糸が突き出て、暗い中でも照らされて影を伸ばしていた。
──影?
お月さまが沈んだのにと、ネズミは立ち上がって鼻を震わせた。灯りを探しているのについつい鼻に頼ってしまうというのが宿命である。でも、灯りの源を探し当てたのは鼻でも目でもなく、耳だった。
とても懐かしい響き。
それは頭の上の方から聞こえ、鼻先を向けると、とても見慣れたものが浮かんでいた。
ネズミはその青白い輝きに引き寄せられたものの、どうやっても空へ上がることは出来ないので、ただ見つめていた。およそ鼠というものが何かを一心に見つめることがあったろうか。ネズミにもわからない。ただ、自分を呼ぶ響きは鼠のそれとは違ったし、まず鼠に名前があるとは思えなかったから、違うのだろうと感じた。懐かしい響きは名を呼び、つまるところ誰かの声だった。
──カエデ。
名を呼ぶ声に、カエデ──朱い落葉──は耳を澄まし、どんな響きも聞き逃すまいと瞼を閉じさえした。声が響く度、段々と、まるで誰かに包みこまれているように体が暖かくなる。やがて辺りに風が吹き始め、勢いを増していくのがわかった。風はとても狭い、隙間のような処を通り抜ける時のように、時折高く鳴いた。朱落葉が瞼を開く。
四つの部屋に分かたれた青白い輝き。中心に十字が入り、四隅は囲まれている。それが窓だとわかるまで、少し時間が必要だった。
「カエデ、目、覚めた?」
親しい友の声だ。顔を向けると、よく知る顔があって、肩を抱いてくれていた。
「フウ」
朱落葉はとても懐かしいもののようにフウ──桑芥子──を見つめる。激しい風に小屋が震え、軋みを上げた。隙間から吹き込む風が桑芥子の白い髪を散らす。
「いい? すぐ出るよ。早く」
朱落葉は肩を持ち上げる様に急かす桑芥子に、どうしても聞かなければならないことがあるのを思い出した。
「風見鶏はなんて?」
桑芥子はそれに答えず、半ば無理矢理に朱落葉を立たせると、ゴーグルをはめた。
「木枯らしが来るんだって、それもカマイタチが」
朱落葉は落ち葉を巻き込んで螺旋状に吹き荒れる木枯らしを思い浮かべ、扉へと走った。
木枯らし─おわり