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秋の話  作者: ¡no pasarán
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月の砂漠

 確かに何かが居ると思ったのに、何も居なかった。

 男──それは若く青年といえた──は、指先で灼熱するマッチを見つめた。燃え上がったが瞬く間に消え、煙草に火を点けられなかった。これで三本無駄にしたことになり、残りは十本に満たない。

「入口でやるから駄目なんだ。風はここから入ってくんだぜ」

 青年の肩に手を置き、大柄な男が助言した。それもそうだ、と青年も頷いたが、彼にはどうしてもここでなければいけない理由があったので、またマッチを取り出し、木の壁板で擦った。

 手元に生まれた小さな灯り。それは渾身の力で周囲を照らした。やはり見慣れたものしかない。青年は口に咥えた紙巻き煙草に火を近付けた。心地良い響きを発てて、煙草の先端が赤く灼熱する。

「お家帰りたい」

 青年の言葉が意外だったのか、背後の男は戸惑いともとれる声を出した。彼らは地下階段の入口に居て、その下では、先程まで誰もが抱えている心配事について意見が交わされていた。

「なんでまた? ママァの魚料理でも食いたくなったか」

 青年はもちろん食べたかったが、問題はそこではない。もっと深層にある記憶が、青年に危険な一言を言わせるらしい。

「朝になるとさ、いや、まだ四時過ぎなんだけど、シトロンが顔に乗ってさ、それで起きるんだ。そこで皆より早く食堂に行って、ミュールのジャムを舐めるんだよ……」

 シトロン? 男は顔に乗る黄色い果実(レモン)について少し悩んだ。

「猫だよ、僕の家の猫。変な臭いがしてね。顔はほら、ルーシのニコライ皇帝みたいな構えなんだ」

「不細工な猫だな」

 男がそう言うと青年は笑った。昔から同じように、家族からでさえそう呼ばれていたらしい。

「で、なんだ。顔に猫乗せてジャム舐めたいってか。まともじゃねえぞ」

「そう、よっぽど、まともじゃないさ……」

 その消え入りそうな声に、男も同情というものが芽生えてきた。いや、元からこの青年に同情していたのが一層強くなったと言うべきか。

「ジュール」

 優しく名を呼ぶ声は、青年──本当はギュスターヴといったが──にとって何時も特別なものだ。彼は背中で、君の友情には感謝するよ、とでも伝えるように、ただ静かにしていた。

 男はしばらく考えて「砂漠の水だ」と話し始めた。

「お前は水を知っているから喉が余計に渇く。だが渇きを知らないと、何時の間にか干からびちまう。だからよ、ジュール。お前はまともだ、まともだからそうなるんだ」

 ギュスターヴはただ、指先で灰になっていく煙草を見つめている。

「喉を潤すには、例え泥水でも飲まねぇとな」

 男は再びギュスターヴの肩に手を、正確には手に持ったガラス瓶を彼の肩に置いた。ギュスターヴはそれを掴み、コルク栓を勢いよく抜く。

「マテュー」

「なんだ」

 ──月の砂漠デゼール・デュ・リュネだ。


 ギュスターヴの見上げる先には白い月が浮かび、月明かりに照らされた大地は灰色に染まっている。

 何千何百という砲弾が地面を掘り返して無数のクレーターを造り、そこに雨が降って暗灰色ダークグレー)の泥濘となった。草原は吹き飛ばされて跡形もなく、ただそこかしこに枝を吹き飛ばされた樹木の幹が、白い胴を晒している。

 定期的に打ち上げられる照明弾の下、前線の反対側では数百の兵が活発に動き回り、細長い牛乳缶のような容器を並べていた。彼らは皆、仮面(マスク)を付け、二つ並んだ円形板ガラス(ゴーグル)が月明かりを盛んに反射していた。



   月の砂漠―おわり

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