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(98)  エンブレム

 自分なんかが出る幕ではない…と滝口は思えた。地位も名誉も金もない自分が幾ら中学時代の友人の頼みとはいえ、私設秘書官なんて…と、荷重におもに感じたのである。

「いや、突然な話だから分かるんだけどさ。滝口君、そこをひとつ頼むよ」

 川餅かわもち首相は滝口に懇願するように言った。滝口にすれば、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの川餅が自分ごときに声をかけてきたことさえいまだ信じられなかったのである。

 日本人はエンブレムに弱い。どういう人物か分かりもしないくせに肩書きや実績というエンブレムでその人物を簡単に信用したり尊敬したりするのだ。滝口は出来る男だったが、幸か不幸かエンブレムとは無縁であった。彼はそれも宿命だ…と思って生きてきた。自分から出来る男と思わせるのが嫌で、不器用、無能力者として生きることを(むね)旨とした。別に苦とも思わず、とがろうとも思わず、役所の一部署で目立たず楚々と生きてきたのだ。それが、どうだ。何がどう転んだのかは分からないが、急な川餅からの電話だった。携帯を手にしたとき、よく番号が分かったなあ…と不思議に思えた。

「ちょっと戸惑ってるんで…。また、こちらから電話します」

 電話を切った滝口は敬語を使っている自分に気づいた。

「どうしたんだよ、突然。いや~、それにしても久しぶりだな、川餅」

 電話に出たとき、最初に滝口はそう口にしたのだった。電話を切って滝口はエンブレムを思った。総理大臣というエンブレムが自分にそう話させたんだ…と。よく考えれば、川餅は父が元首相というエンブレムをすでに手に入れていたのだ。これも天分なのだから、善でも悪でも、なれるべき者がなれるのか…と思えた。

 結局、滝口はエンブレムを背負う川餅の話を辞退した。だが現在、表立たない秘書官として、極秘裏に川餅を手助けしている。彼にとって影の立役者にエンブレムは無用なのである。…とかなんとか言って格好をつけていた滝口だったが、今は妻の忍というエンブレムにドッシリと組み敷かれている。


                    完

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