(96) 天邪鬼[あまのじゃく]
川渕六郎は、天邪鬼である。小説を書くことで作家として生計を立てる彼は、ここ最近、ヒット作に恵まれず、出版社から人気作家の連中と一線を画されるようになっていた。その彼は新進女流作家として華々しく世に躍り出た山底民江の人気に、ある種の羨望を抱いていた。要は、自分も世間から、もう一度、チヤホヤされたい…という低俗な願望である。だが、その羨望も半年が経つうちに、少しずつ彼の心の中で萎んでいた。時の流れが心の薬・・とはよく言われるが、まさにそれだった。
ところが、どういう訳か今朝、思い出したように突然、川渕の心の中でメラメラとその炎がふたたび燃え出したのである。そこへ川渕の内心に潜んでいた天邪鬼の角が、ニョキリと頭を擡げた。さて、そうなれば、居ても立ってもいられないのが川渕の性格である。彼は山底の小説が掲載された雑誌リゲルをもう一度、山のように乱雑に積まれた本や雑誌の中から探し出し、手にした。
「これだな…」
川渕はニタリと微妙な笑みを浮かべた。山底がリゲル新人賞を受賞した記念号である。彼女の受賞作「助かル」が再掲されていた。川渕は血眼になって読み漁った。男女の情念を上手く描いた作品だな…と、敵ながらあっぱれの感じで読み終えた。そこで川渕は、はたと考えを巡らせた。
山底の「助かル」は、恋破れ、自殺しようとした女が、とある崖で助けられ、その男と恋に落ちるという筋立て[プロット]である。ところが、話には続きがあり、その男は実は多額の借金を背負っていたのだ。助けられた女は恋に落ち、その男と暮らし始めたが、結局、生活に追われて全然、助からなかった・・という落ちである。川渕は、これが受賞作か…と頭を傾げた。これくらいなら、俺だって書けるさ…。よし! 俺はその逆を書いてやろう…と、川渕は天邪鬼へと変身した。
天邪鬼に変身した川渕が運ぶ筆は速かった。瞬く間に100枚を超える原稿の山が出来上っていった。そして、数時間が経過した。
「出来たぞ…」
川渕が手にした原稿のタイトルは「お陀仏」だった。その作品の筋立ては山底の「助かル」とは真逆で、とある崖で散々、男と遊び尽くした女が、人生と恋に飽きて自殺しようとする。それを助けた男はその女と恋に落ち、二人は一緒に暮らし始めるのだが、結局、男は女に飽き、二人の生活は、お陀仏になる・・という落ちである。
一年後、どういう訳か、川渕の「お陀仏」は反響を呼び、彼は文壇の頂点の賞の一つ、植木賞を受賞していた。
「いやぁ~、ほんの手慰みの愚作ですよ…」
川渕は受賞インタビューで、また天邪鬼へと変身し、ニタリと微妙な笑みを浮かべた。
この話にはまだ、華々しい後日談がある。どういう訳か川渕と山底は激しい道ならぬ恋に落ち、二人は崖から海へ飛び込んでお陀仏になったのである。天邪鬼は怖い。
完




