(89) あの頃
心地よい微風が裏庭のテラスを吹き渡っていた。リクライニングチェアーの上で取締役会長を息子に譲った憲一郎はウトウトと夢を見ながら微睡んでいた。
季節はあの頃の夏だった。子供の憲一郎は滾々(こんこん)と湧き出る水の流れの中に浸かっていた。足の周りの冷たい感触が心地よかった。水の流れの中に魚がいた。それは鮎であり、追河だった。どういう訳か、急に場面が変わり、憲一郎は細く澱んだ川の中にいた。泥色に濁った水の中で憲一郎は竹製のタモ網で川岸の魚を掬い入れようとしていた。水は濁っているから、当然ながら獲物は憲一郎には見えない。力強く掬っては水上へ上げ、網の中を覗き見た。ザリガニ、ゲンゴロウ、泥鰌、田螺…と、いろいろ入っていた。憲一郎にとって、その内容は大満足だった。大人なら、なんだ、泥鰌だけか…となって、すぐ次の網を入れるのだろうが、憲一郎はそれらを全部、ビクへ入れた。これでは釣りじゃなく虫採集だ…と子供の自分を見ながら憲一郎は眠っているのだが、どういう訳か夢を見る大人の憲一郎には間違いとも思えなかった。そしてまた、場面が急展開して変わった。子供の憲一郎は泥鰌を天麩羅にしていた。油は菜種油だった。今ならオリーブ油が全盛だよな…と眠っている憲一郎はニヤけて思った。しかし、あの頃は物が乏しいそんな素朴な時代だったんだ…と、すぐ思い返した。
カタン! という金属音で、憲一郎は目覚めた。相変わらず心地よい微風が庭を吹き抜けていた。立てかけて置いた小さなショベルが風で倒された音だった。庭土を弄ったときに使ったのだが、そのまま仕舞わず忘れていたのだ。憲一郎はリクライニングチェアーからその倒れたショベルを見ながら、ふと思った。確かに、あの頃は戦後の物資が欠乏していた時代だったな…と。だが、長閑でゆったりと時が流れるいい時代だった…とも思えた。人の心も今と違い、荒んでいなかった。だいいち、あの頃はタバコも両切りで、フィルターなどという洒落たものもなかった時代だった。だから、ポイ捨てられても雨に打たれれば、いつの間にか消えてなくなった。いや! 拾う人はいたが、捨てる人はほとんどなかったはずだ。バタ屋さんが拾い集め、巻き直していた…。そんな小さな夢の続きを憲一郎は思い出していた。
「眠ってらしたんですか? …」
妻がテーブルに憲一郎が嗜好するシナモンティとクッキーを持って現れた。そして、静かにそれらをテーブルへ置いた。
「ああ…。どうもそのようだ」
憲一郎の周りに過去の懐かしい時が流れていた。
心地よい微風が裏庭のテラスを吹き渡っていた。お気に入りの草の上で猫のタマはウトウトと夢を見ながら微睡んでいた。
季節はあの頃の夏だった。子供のタマは滾々(こんこん)と湧き出る水の流れの前で足をナメナメしながら寛いでいた。足の周りの冷たい感触が心地よかった。水の流れの中に美味そうな小魚がいた。どういう訳か、急に場面が変わり、子供のタマは細く澱んだ川の上にいた。泥色に濁った水の上でタマは小魚を取ろうとしていた。小魚は水の中にいるから、当然ながら獲物は子供のタマには獲れない。だが一応、水中へ腕をつけ、獲ってみようと試みた。結果、獲れなかったが、子供のタマにとって、その内容は大満足だった。大人の猫なら、なんだ、それだけか…となって、馬鹿馬鹿しくなるのだろうが、子供のタマはそれで満足だった。これでは狩りじゃなく遊びだ…と子供の自分を見ながらタマは眠っているのだが、どういう訳か間違いとも思えなかった。そしてまた、場面が急展開して変わった。タマは魚を口にしていた。魚は生だった。今なら缶づめが全盛だよな…と眠っているタマはニヤけて思った。しかし、あの頃は物が乏しいそんな素朴な時代だったんだ…と、すぐ思い返した。
カタン! という金属音で、タマは目覚めた。相変わらず心地よい微風が庭を吹き抜けていた。小さなショベルが風で倒された音だった。ご主人の憲一郎が庭土を弄ったときに使ったのだが、そのまま仕舞わず忘れられていたのだ。タマはお気に入りの草の上からその倒れたショベルを見ながら、ふと思った。確かに、ご主人は最近、物忘れが激しくなったな…と。以前は、そんな凡ミスはされなかった…とも思えた。だいいち、あの頃は、そんな暇もないほど多忙で、お帰りはほとんど深夜だった。だから、ご主人にお出逢いする機会は、ほとんどなかった…と、そんな小さなことをタマは思い出していた。
「眠ってたのニャ~? 奥様がお水を変えてくれたわニャ~…」
妻のミイが草の上へ横たわるタマに近づいて言った。そして、静かに足音もなく座った。
「ああ…。どうもそのようだニャ~」
タマは憲一郎の口真似をして言った。タマの周りに過去の懐かしい時が流れていた。
完




