(84) 間違[まちが]い
腕を見て田所は、しまった! と思った。車のハンドルを握っていれば、まだ迂回路を走り、なんとかなったのだ。だが時すでに遅し・・で、鉄道を選択した以上、どうにもならなかった。この時間、その場に着いていないのだから完全な失態で、取り返しようのない間違いに思えた。梅雨末期の豪雨災害が災いし、土砂崩れで線路が寸断された。その結果、新幹線に乗り継ぐ駅に出られないまま、田所は列車内に閉じ込められたのである。出がけに携帯を車へ置き忘れていた。そんなことで、取引先との連絡が取れなかった。昼までに取引先の会社へ着かねばならなかった。契約が整った直後で、契約書の受け渡しがあったのである。
「どうなんですかっ?!!」
田所は客室乗務員に詰め寄っていた。
「どうって言われましてもね…」
自分自身にも、先の見込みが分からなかったのか、客室乗務員は語尾を濁して暈した。
「困るんですよ! 昼までに着かないと…」
「ははは…昼は無理でしょ。この状況ですよ」
「あなた! 今、笑いましたよねっ!」
田所は少しムカッとしたのか、客室乗務員に詰め寄った。
「いえ! 決して、そのような…。どうも、すみません」
客室乗務員は、嫌な客に当たったな…という顔で謝った。
「やっぱり笑ったんだ…。笑えるんですか!!? 今の状況で…」
客室乗務員は制帽を取って田所にお辞儀した。
「… そこまで、してもらわなくても…」
田所は怯んだ。客室乗務員は、はてっ? と思った。床に切符が落ちていたのを見つけ、腰をかがめたのだ。田所は、自分に謝ってくれたんだと早とちりして間違えたのである。客室乗務員は切符を拾うと背を伸ばして田所に訊ねた。
「これ、お客さんのですか?」
「えっ?」
田所は攻め手を失い、客室乗務員が差し出した切符を見た。そして、自分のポケットを弄った。田所は入れたはずの切符がないのに気づいた。何かの拍子で落としたか…そういや、さきほどポケットからハンカチを出したことを思い出した。その時、落としたんだ…と思えた。
「はあ…有難う」
「それじゃ」
客室乗務員は笑顔で敬礼すると歩き去った。今日は間違える日だ…と、田所は、すっかりネガティブになった。そして半日後、田所はようやく、取引先の会社へ着いた。約束した昼は疾うに回り、三時近くになっていた。
「すみません、遅くなりましたっ! …田所です!!」
「やあ、田所さん。どうされました? そんなに息を切らせて?」
「だって、今日は契約を…」
「はあ? 契約は明日ですよ?」
田所は一日、契約日を間違えていた。
完




