(83) 危ない危ない…
兼竹豪商に勤める課長補佐の石渡慎吾は注意深い男である。いや、彼の場合はそんな生半可な慎重さではなく、いわば一種の病的な臆病さだった。何をするにも三回は確認してからでないとその企画を起こせない慎重さで、課の部下達はそういう石渡を少し煙たく思っていた。
「石渡君、これ明日までに頼むよ」
課長の迷川に言われ、預かった企画立案に関する書類だったが、慎重さが災いして、まだ手も付いていなかった。その企画に対する膨大な資料は石渡の書斎の上にうず高く積まれてはいた。ただ、どれも企画書として提出すると失敗する危険を肌に感じ、石渡は企画とはしなかったのである。その企画原案は15以上にも上った。
「いや、これは危ない危ない…」
そして、今朝、石渡は迷川に呼ばれ、課長席の前に立っていた。
「出来たかね? 石渡君…」
「いや、それが…。考えてはみたんですが、どれも今一、危険性を伴うようでして…」
「えっ! 出来てないんだ…」
迷川は、しまった! と思った。石渡が病的に慎重過ぎる男だということを、ついうっかりしていたのだ。迷川は軽率な判断をした自分を悔いた。だが、時すでに遅し! である。そのとき、石渡の横のデスクに座る課長代理の果敢がヒョイ! と立ち、スタスタと歩いて石渡の横へ躍り出た。
「課長! それ、昨日、聞こえてましたので、念のため考えておきました。これです!」
果敢は手に持っている企画書を迷川のデスクの上へ置いた。迷川は、助かった! と思った。逆に石渡は危ない危ない…と思った。今まで、果敢の仕事ぶりを見てきた石渡としては、彼の積極的な行動はすべて危うく映っていたのである。事実、果敢の仕事結果は会社に膨大な利益を齎たこともあったが、反面、多大の損失を計上したこともあった。概して、大きなリスクが伴う企画となっていた。それに比し、石渡は慎重の上にも慎重を重んじたから、結果は必ず出た。ただ、慎重な分だけ時期が遅れ、その利益は軽微で、よくても中程度の営業成績となった。
果敢の企画書を手に取って見る迷川は、その構想の大きさに唖然とした。莫大な出費を必要とする企画案だった。ただ、成功すれば、その倍の利益は見込めたのである。
「石渡君、どうかね、これ…」
迷川は課長の風格をチラつかせ、少し偉ぶって石渡に企画書を渡した。石渡は、その企画書に軽く目を通し、すぐ思った。危ない危ない…と。
「…どうなんでしょうか」
石渡の口から出た言葉は、Yes,でもNo,でもなかった。内心では警報の赤ランプが激しく点滅し、脳裡で警報音がけたたましく鳴っていたが、彼は暈した言葉を口から吐いた。
「そうか…。まあ、考えておくよ」
迷川も果敢に対し、迷って返答を暈した。石渡は内心で危ない危ない…を繰り返した。
完




