(76) 危機感
鳥淵は絶えずビクビクしていた。家の中でも、外へ出ても、その心理は変化しなかった。彼にはすべてのものが危うく見えていた。この傾向は今に始まったことではなく幼い頃だったから、周囲の者達にはどうしようもなかった。取り分けて、他人に迷惑をかける性質のものではなかったから、鳥淵はそのまま成人した。心配性なだけで、行動に異常は見られず、一般生活では普通人と何ら遜色はなかったのである。だが、彼の心理は絶えず混乱していた。
新幹線に乗れば、まず駅の構内の線路に視線が行ってビクビクした。
『こんな細い線路を時速数百キロで走るなんて…』
鳥淵には、そんな列車の走行がとても危険に思えた。普通路線の脱線 転覆事故とか踏切事故などが、すぐ鳥淵の脳裡を掠めるのだ。これなどは極端な例だが、普通に道路を歩いているときでも、鳥淵はビクビクして歩いていた。周囲の人がそういう彼に気づきソワソワしたりした。鳥淵はこりゃ、まずいぞ…と思え、それ以降、外出にはマスクと帽子で完全武装し、表情を悟られないようにした。鳥淵がビクビク危うく思えるのは何も物に限ったことではなかった。人物に対してもそうなのである。話す相手が自分に何を思っているのか、自分をどうしようとしているのか、自分に何を望んでいるのか…と考えれば、ドキドキ感は鳥淵の中で一層、増幅された。だから職場は彼にとって非常に危うい存在だった。人との接触、事物との遭遇…と、鳥淵のビクビク感を助長する対象は、人の想像を遥かに超える情報量になっていた。そんな鳥淵だったから、一日が終われば、グッタリと疲れた。幸い、大いに食欲はあったから、彼は食べることで救われた。食べると鳥淵は萎んだ風船が膨らむように元気になった。鳥淵の元気回復の源泉を加えるなら、食後のテレビ、読書、音楽鑑賞、そして眠るときだった。
あるとき、鳥淵を危機感が襲った。そのドキドキする心理は、今までのモノとは違い、目に見えない、いわば気配のような悪い予感だった。その危機感は彼の身体を走らせ、人々を退避させようと無意識に行動させていた。鳥淵は街頭に立ち、拡声器のマイクを握りしめ、声を張り上げていた。不思議なことに、鳥淵のビクビク感は微塵もなく消え去っていた。それがなぜなのかは鳥淵自身にも分からなかった。ただ、鳥淵は叫び続けていた。ゆったりと歩く舗道の人々は、血相を変えて走る鳥淵を見て、視線を向け、立ち止った。やがて人々は、そんな彼を哀れな目で見ながら通り過ぎていった。彼らには鳥淵が変人に思えたに違いなかった。
夜になっていた。飛び出したのは職場の昼休みだったことを鳥淵は、ふと思い出した。鳥淵自身にもなぜこの危機感が自分に芽生えたのか? が分からなかった。まだ、危機感はヒシヒシと彼の身を包んでいた。
その一時間後、直下型の大地震が都心を襲った、鳥淵は車を走らせ真夜中の奥多摩の山中にいた。停止させた車の中で、鳥淵は震えながらカ-ラジオが伝える都心の惨状に耳を欹てていた。
完




