(73) 忘れた頃に…
災難と幸運は忘れた頃に…とは、よく言う。この男、七橋は、それを実体験した男だった。
「ははは…いくらなんでも、今日は降らんだろう!」
確信し、傘を持たず出張先へ出かけたまではよかったが、一時間後、天気は急変して土砂降りとなり、七橋は動きが取れなくなってしまった。それも、先方の会社がある駅へ着いた途端である。駅からは徒歩で十数分だった。近いからタクシーを…と思った七橋だったが、待てよ! という、さもしい発想が浮かんだ。さもしいとは、タクシー代を浮かせ、美味い肝吸い付きの鰻重御膳を戴こう…という魂胆の閃きである。七橋の会社の出張旅費は交通費+諸経費+予備費で構成されていた。交通費は目的地までの運賃+αである。αや予備費を抑えて諸経費へ回そうと、それは個人の自由だったから、七橋はそちらを選んだのである。
さて、動きが取れなくなった七橋は、駅で使い捨ての傘を買った。ところが、駅を出た途端、雨はピタリ! とやみ、買った傘は用無しとなってしまった。それでもまあ、仕方ないか…と、ブラブラ振り回しながら七橋は無事、先方の会社へ着いた。この会社へは足繁く出張していたから、大方の段取りは把握している七橋だった。
「やあ、七橋さん! 今日は、どういった?」
「はあ、今日は…」
そのとき、七橋は家の玄関へ鞄を置き忘れてきたことに気づいた。まさに、災難は忘れた頃に…である。用意周到な七橋としては完全な凡ミスである。いやそれは、心の隙に芽生えた馴れという油断だったのかも知れない。
「すみません。実は、かくかくしかじか、でして…」
「ああ! かくかくしかじか、でしたか。ははは…そういうポカ、私もたまに、あります。いいですよ! 私と七橋さんの仲じゃないですか。ファクスで内容だけ送って貰えれば…」
「契約書は?」
「幸い、上手い具合にうちの平田がそちらの方へ明日、回りますので、契約書は、その折り持たせます」
「そうして戴くと、助かります!」
地獄に仏だ…と、七橋は思った。
こうして、七橋の災難はなんとか去った。出張目的を果たし先方の会社を出ると、昼前になっていた。残った時間はどう使おうと自由である。腹も適度に空いていた。七橋の頭に鰻重御膳が浮かんだ。七橋はいつも寄る店へと入った。相変わらず手には使い捨ての傘があった。邪魔だったが無碍に捨てる訳にもいかず、まあ、仕方ないか…と手に持ち、店へ入ることにした。
「いらっしゃいまし!!」
店の中にはいつもの写真入りの品書きが座席の上にあった。七橋が品書きを手にすると、その中に新顔メニューがあった。
「このメニューは?」
「新メニューの鰻丼御膳でございます」
値段を見れば、鰻重御膳よりは格段に値が安い。だが、写真では鰻丼御膳の方がゴージャスで、品数も多く白焼きさえ付いている。どう見ても七橋には逆に思えた。それでもまあ、安いし…と思え、新顔にした。ところが、である。味がなんとも薄く、ほとんどなかった。七橋は、しまった! と思った。だが、もう遅い。欲を出したのと馴れが招いた災難だった。忘れた頃に…だな、と七橋は思った。味はともかくとして、まあそれでも安くて栄養は取れたさ…と七橋は軽く流してお勘定を済ませた。
店を出ると、また土砂降りになっていた。手には…不要と思っていた傘がある。七橋は、忘れた頃に…だなと、満足げに傘を開いた。
完




