(72) 梅雨[つゆ]
梅雨の雨は恨めしく、幽霊のようにジトジト降るものだ…と浜草は思っていた。ところが、さにあらずだ。昨日なんか、バケツをひっくり返したかのような豪雨で、川向うの家々は床下まで浸水したのである。こっちが恨めしいわ! という顔で、浜草は灰色に曇る梅雨空を見上げた。幸か不幸か、浜草が住む一帯はジトジト雨で豪雨は降った試しがなかった。今日も朝からジトジトと降り続いていた。筆が進まず、今日は寝るに任すか…と浜草は少し怠惰に思った。ここのところ少し無理をして原稿を送っていたから、疲れもそれなりに溜まっていたのである。無理をすると、疲れて目が霞むようになった。若い頃はそんなことはなかったが…と浜草は身体の衰えを感じ、ネガティブになった。
「ムツの味噌漬けを焼きましたよ…」
妻の小夜子が現れ、応接椅子に寝転んだ浜草をチラ見して言った。浜草が銀ムツの味噌漬け焼きが好きなことは小夜子が一番よく知っている。グデ~ンとしかけたときには効果抜群! ということもよく心得ていた。案の定、浜草は飛び起きた。すでに身体が台所へと向かっていた。浜草の場合、まず味噌漬けの焼けた香ばしい匂いから賞味するのが手順だった。この匂いは焼けた直後でなければ駄目なのである。しばらくしてからでは、モノが冷えて、肝心のいい匂いを放たなくなるからだった。匂いを賞味しないと食欲も今一となる。浜草は小走りに台所へと急いだ。
台所には、焼けたての味噌焼きが湯気を上げていた。よし! いい匂いだ…と、浜草は匂いを賞味した。自然と、舌に唾液が溜まるのが分かる。食欲全開だ。自然と浜草の手は動き、茶碗に温かいご飯を装っていた。
いつの間にかジトジトと降っていた雨は上がり、梅雨の雲の切れ間より日射しが差し込んだ。浜草は眩しげに梅雨空を眺め、味噌焼きを口へと運んだ。浜草の心の梅雨は、すっかり開けていた。
完




