(57) 新曲
とあるスタジオである。今朝も舞崎揚羽という下積演歌歌手のレコーディングが行われていた。30年ぶりの新曲とあって、揚羽の意気込みは尋常ではなかった。普通の歌手なら、すでに『一日だけ、お願いします!』と、声枯れを理由に休息日を請求するのだろうが、揚羽は違った。というのも、彼女にはもう年齢的な余裕がなかったのである。十代後半で若々しくデビューした揚羽は、今までに出した曲が三曲で、それらはまったくヒットしなかった。ただ、どういう訳か一杯飲み屋では人気があったから、歌手をやめることなく揚羽は頑張ってきたのだった。その彼女も、すでに五十路にさしかかろうとしていた。時折り呼ばれるクラブ出演より内職まがいで勤めるスーパーの収入の方が多かった。というか、ほとんどで、どちらが本業なのか分からなかった。新曲♪雨漏り慕情♪は、恋しい男の帰りを今にも倒れそうなボロ家で待ち侘びる女の気持を切々と歌い上げた哀愁こもる名曲だった。
「舞崎君じゃないか?」
クラブで唄い終わった揚羽に声をかけたのは、有名作曲家の水漏だった。揚羽のデビュー曲を手がけたのも水漏だったが、当時の水漏は作曲を手がけた頃で、揚羽と同じくまったく無名の新人だった。そんな水漏だったが、今では演歌界の大御所的な作曲家となっていた。
「せ、先生! …」
彼女はクラブの袖で泣き崩れた。そして、揚羽のその後を知った水漏は、彼女を哀れに思い、新曲を作ってプレゼントしたのである。
「そこっ! 寂だろ?! 悲しくないんだよ…。もう一度!!」
水漏の注文は厳しかった。
「はいっ!!」
揚羽は最初からまた唄い始めた。
「だめ、だめっ! 君ならゴキブリの辛さは分かるはずだっ! そのときを想い出して唄いなさい」
「はいっ!」
そして、その日も虚しく暮れようとしていた。そのときである。
「よしっ!!」
ついに、水漏のOKが出た。彼女は金魚鉢と呼ばれるレコーディングのブースの中で嗚咽を漏らしていた。
♪雨漏り慕情♪は大ヒットし、その年の音楽賞・演歌部門を総なめにした。舞崎揚羽は華々しくマスコミに報じられ、有名歌手の仲間入りを果たすことになった。
完




