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(56) 急ぐ

 山村は数十分早く、出張の準備をしようと思っていたが、緊張からか眠れず、二時間ばかりも早く目覚めてしまった。

━ ははは…、今日は余裕だな ━

 山村は、したり顔で、そう思った。決して計算した結果ではなかったが、幸いにも眠れず、早起き出来ただけのことである。したり顔をするほどのことでもないな…と山村は少し反省した。それでも、余裕がある…という気分は残っていたから、出るまでの所作はいつもと同じなのだが、動く速さはにぶくなっていた。

 小一時間もすると、朝食など、ひと通りの所作は終わっていた。山村はこの時点で腕を見た。

━ まだ、一時間以上あるな… ━

 山村は単純に思った。着がえも済んでいたし、毎朝やることは、もうなかった。なにげなく小物入れを開けたそのときである。開閉戸のマグネット止めの片方が破損していたことを、ふと思い出した。片方は固定して大丈夫だから、取り分けて開閉に困るということもなく、そのまま放置しておいたのだ。山村は、まだまだ大丈夫だろう…と即断し、修理することにした。というのも、気分として一時間以上は優にある…という余裕感が潜在していたからだった。山村はボンドを出して接着しよう…と動いた。簡単な修理だったから、その作業は数分で片づいた。山村はふたたび腕を見た。まだ四十分ばかりあった。まだ余裕はある。だが、他にすることはもうない。山村は。少し早いが出かけるか…と、玄関を出た。かぎを閉め、ポケットをまさぐって気づいた。ハンカチを忘れていた。山村はあわててハンカチを取りに家の中へもどった。さあ、出るか! と意気込み、車へ向かうと、いつも入っている車のキーがポケットになかった。しまった! 間違えたんだ…と、山村は気づいた。そしてふたたび、家の中へと取って返した。腕を見れば、三十分ばかりまだあった。ほっとし、今度こそもうないだろう…と、少し意固地に思いながら車のドアを開けた。そして、エンジンキーを挿し込もうとした。だが、鍵穴にキーが入らない。よく見れば、倉庫の鍵だった。なぜ倉庫の鍵が…? と山村は巡った。昨日きのう、剪定道具を出すために倉庫を開けた記憶が浮かんだ。その鍵をそのままポケットに入れたのだろう。そのとき、ポケットの中には車と倉庫の鍵の二つが存在していたのだ。それにしても、なぜ? と、山村の疑問は益々、大きくなった。考えられるのは、鍵の収納棚しゅうのうだなに戻したとき間違えた・・としか思えなかった。山村は車を降り、家の中へ再々度、入った。向かったのはもちろん、収納棚である。やはり、収納棚には車の鍵があった。山村の足は少し急いでいた。この段階で山村の余裕感は消えていた。腕を見ると、まだ十分あった。余裕感は消えたが、まだ時間はあった。まあ、いいか…と、山村は自分をなぐさめながら車へと向かった。そのとき、にわかに便意をもよおした。これは困ったぞ…と、山村は思った。よく考えれば、まだ十分ばかりあるのだ。用をすくらいの時間はあった。山村はトイレへ急いだ。そして、トイレを出たとき、最初予定していた時間を少し回っていた。山村は、余裕なく急いだ。


                 完

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