(53) 慌[あわ]ただしい
営業一課の邦山は会社のエントランスを慌ただしく歩いていた。ジィ~~っと座り続ける彼の姿を、今まで誰も見たことがなかった。
「おいっ! 慌ただしいのが戻ってきたぞっ!」
エントランスを対向してすれ違った課員が携帯を手にし、急いで同僚へ電話した。
「分かった! 緊急警報、発令!!」
課内の課員が携帯に出た。課内に一瞬、緊張が走った。邦山が戻れば、課内をバタバタと動き回るのが目に見えている。営業一課の連中は、一斉に顔をデスクへ向け、視線を書類やパソコンのモニター画面へと向けた。邦山に関われば、それだけ邦山が課内に留まる時間が長引く。長引けば、邦山のことだからバタバタと用もないのに、あちこちをウロウロと動かれる・・などと心配する破目になる。そうなれば、小忙しいから仕事に集中出来ない、という寸法だ。だいいち、狭い課内を歩き回るものだから、埃っぽくていけない。課内の連中は、誰もがそう思っていた。
そして今日も、その邦山が外回りから戻ってきたのである。彼の姿を課内で気づいた第一発見者は誰彼なく、『緊急警報、発令!!』と皆に伝える申し合わせが出来ていた。それを知らないのは、邦山、ただ一人だった。戻って来た邦山は、自席のデスクへ座らず、課内をまず、ひと回りし始めた。丁度そのとき、課長の堀田と課長代理の瀬崎が話をしていた。二人は当然、邦山が目に入った。
「課長、どうします?」
「どうしますって、どうにもならんだろう、君…」
「彼は一日中、出歩いていてくれてる方が…。出社と退社のときだけ姿見せてくれりゃ、それで十分です。それとなく課長から、言って下さいよ」
「だな…。その方が邦山君にも好都合だろう」
「ええ、そうですとも…。それに、こちらも助かります」
瀬崎は課内を歩き回る邦山を目で追いながら言った。
「おい! 邦山君!」
さすがに邦山も堀田の話を聞くときだけは動かない。その現象は課員もよく知っていた。緊張していた全員が緩んでダレた。邦山は課長席までスタスタと歩き、停止した。誰とはなく、フゥ~っと安堵の吐息が漏れた。
「邦山君、君には悪いんだが、こちらから電話で指示するからさ。直接、契約先へ出勤して退社時以外は外を回ってくれ。昼食と休憩は適当に取ってくれりゃいい。伝票は会社回しでいいからさ」
堀田は腫れものに触れるかのように優しく言った。
「それがいいよ、邦山君…」
瀬崎は堀田に追随した。
「はい、分かりましたっ!」
邦山は一も二もなく同意した。
「それじゃ、出てきます」
「おっ? ああ…」
あっけない邦山の返事に、二人は唖然として邦山を見た。邦山は満面の笑みで課を出ていった。自らの動きを制御できないから、邦山としても好都合だったのだ。
次の日から営業一課の慌ただしさが消えた。課内はお通夜となり、ただ一人、外回りの邦山だけが慌ただしく華やいで動き回っていた。
完




