(42) 欲で生きる男
生れもって富豪のその男は、欲で生きる男である。彼から欲を取れば、何も残らない…と誰もが思うほどの凄まじい欲の持ち主だった。男の前には我慢する・・という言葉は存在しなかった。我慢は健康によくない…というのが彼の持論で、必ず発散した。むろん、それは法律で許される範囲内だったが、あるときなど、ギリギリでセーフという事態も起きたりした。その欲の発散のため、男は一時、外国で居住し、発散後、また帰国したこともあった。だが彼は怯まなかった。欲だけが男のすべてだったからだ。食欲、色欲、地位欲、名誉欲、金欲、物欲、生命欲…なんでもござれで、欲で生きる彼の糧となった。彼にはそれを極める天性の集中力が備わっていた。
「ああ、素晴らしい逸品だねぇ…。12億なら安いじゃないか」
「いかが、いたしましょうか?」
男は黙ったまま、片手でOKサインをだした。
「かしこまりました…」
執事は下がろうとした。
「あっ! 今夜はアレにアレだよ」
執事は止まって、振り向いた。
「はい、分かっております。アレにアレですね?」
「そう。アレのアレじゃないよ。アレにアレ」
「はい、かしこまりました。そのように…」
軽く頭を下げると、執事はふたたび動き、去った。前者のアレとはアレで、後者のアレはアレである。言っておくが、決してナニではない。
彼は欲で生きる男だったが、酒池肉林に溺れないある種の弁えがあった。それが欲で生きるこの男の原点でもあった。
あるとき、国連の事務総長が極秘裏に彼を二ューヨークへ招致した。会談は某ホテルの一室で、これも完全なマスコミをシャットアウトした警護態勢で、通訳を介して極秘裏に行われた。
「お願いいたします。是非とも世界の舞台へ!」
「いや、事務総長。申し訳ないのですが、私にはその気がありません。見えずに世界を動かす…それが、私です」
[私の欲です]と言いかけ、男は慌てて[私です]と言い変えた。彼は一度、表舞台で世界を動かしかけたことがあった。だが余りの多忙さが、男にはどうもシックリと馴染めず、その欲はいつの間にか消え去ったのだった。
現在、男の欲はふたたび膨らもうとしている。世界で頻発する紛争を未然に消し去ろうという欲がメラメラと彼に燃え始めたのである。久しぶりに彼の心に湧いた欲の胎動である。この欲が満たされるとき、彼が世界の救世主となることは疑う余地がない。
欲で生きる男は今、静かに世界の動静を見据えている。
完




