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(29) 動く

 じっとしていてもらちが明かないから、ともかく動こうと、尾世は動くことにした。まあ、動いてから発想を組み立てながら目的地へ移動すれば、よしとしよう…という単純な発想である。

「動物は動くものさ、ははは…」

 生物学の俵教授はそう言うと、尾世の肩をポン! と軽く叩いた。俵教授と同じ郷里の尾世は、学生時代からなにかと俵と親交があった。大学卒業後、就職が内定せず困っていた尾世を研究室へ入れてくれたのも当時、助教授だった俵だった。

 ともかく動こうと家を出た尾世だから、目的など何もない。歩いているとポストがあった。そういや、そろそろ年賀の季節か…と尾世は思った。じゃあ、郵便局へ立ち寄るか…という頭脳内で発想の動きがあり、身体が動いた。正確には両足である。位置は分かっていたから現在地からは…と頭脳を巡らせ、歩道を右折左折していった。近道を選んで路地に入った途端、細い側溝の清流に黄色いボールが一個、流れてきた。なんだか知らないが…と思うでなく尾世の身体は動いて、その黄色いボールを拾っていた。テニスでもなければ野球、ピンポンの球でもない。はて? と、尾世はあんぐりした顔で考えた。

「おじさん、どうも有難う!」

 すると、遠くから尾世に向かって声がし、小学生の二人の男子が息を切らせて走ってきた。

「んっ? ああ…」

 尾世の手は無意識に動いて、その黄色いボールを返していた。そのとき、尾世の口は自然に動いてたずねていた。もちろんその背景には、前段階でのボールに対する潜在意識が働いていたことは間違いなかったのだが…。

「これは、なんなの?」

「ああ、これ? カラーボールだよ。おじさん、知らないの?」

「ははは…馬鹿な。知ってるさ、もちろん。カラーボールだろ? カラーボールだよ。ははは…」

 尾世のメンツはつぶれそうになった。尾世は笑って誤魔化した。自然と笑ってぼかそう! という命令が脳から出され、顔面神経が顔の筋肉を動かしたのである。子供二人は、いぶかしげな表情で尾世に軽くお辞儀すると走り去った。近くに咲いていた路地のタンポポは動かず、それでいて微かな風に揺れ動かされながら、尾世を馬鹿な男だ…という冷めた目で見ていた。


                   完

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