(12) 勝負なし
ここは空手道場である。負けても負けても性懲りもなく稽古に通う年老いた一人の男がいた。名を野真省次郎と言った。名からすれば凄腕の剛の者に思えるが、実際の腕はからっきしで、今までの試合で勝った試しのない男である。しかし、ただ一つ、他の者を凌ぐ根気強さが野真にはあった。この男、十五の年から空手を始めていたのだが、すでに五十年近くが過ぎ去ろうとしていた。弱いくせに強がって他の者との試合を望んだ。この日も朝早くから道場へ通い、いかにも自分が師範代かのごとく振舞っていた。師範代の寺内も年功のある野真には多くを語れず、一目置いて彼に従った。
「野真さん、今日はどなたと?」
「もうじき来るだろう。いつものように軽く腕を見てみよう…」
野真は負けても、相手に負けたとは思っていなかった。軽く相手の技を探るため、わざと負けてやった…と、他の門弟達に言い放つのだった。実際は、完全にやられているのである。ところが、「ふふふ…なかなか、やるのう…」と、こう野真は嘯いた。野真の心中は勝負なしの気分なのだ。誰が見ても、あんたが負けだろ? という散々な結果なのだが、彼はそう思っていなかった。
小一時間ほどして、佐々(さっさ)正之助という大男が現れた。今日も野真さん、散々に…と誰もが思い、試合が始まった。
「お願いいたす!」
声だけならもの凄く強そうな野真が、佐々にお辞儀をした。
「お手柔らかに、お願いいたします」
佐々も低姿勢のか細い声でお辞儀をし、試合が始まった。結果は約2分で決した。もちろん野真がボロボロに負けたのは言うまでもない。
「なかなか、やるのう…。まあ、今日はこの辺にしておこう」
「有難うございました!」
「おお…。まあ、勝負なし、ということだな、ははは…」
勝ったはずの佐々が負けたはずの野真に深々と頭を下げた。いつもの光景だから、試合を見守っていた門弟達も、取り分けて不思議がる様子もなかった。
そしてある日、ついに野真の勝つ日がやってきた。その日も野真は、いつものように相手に対していた。もちろん相手は師範代の寺内でもかなわないと思える剛の者だった。ところが、異変が起こった。野真が構えた瞬間、相手は急におびえ出したのである。そして、野真が胴着に手先を振れた瞬間、相手は自ら、吹っ飛んだ。
「参りました!!」
ヨロヨロと立ち上がった相手は、息も絶え絶えに野真にそう言った。野真は一瞬、自分の前で何が起こったのか信じられなかったので驚いた。相手の空手に払われて倒れるはずだったからである。それが、勝ったのだ。野真は穏やかな声で言った。
「態と負けていただくとは有難い。…まあ勝負なしということで、お願いいたします」
野真は相手に対し、深々と頭を下げた。
完




