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(1) 凡太の憂鬱[メランコリー]

 子供のない夫婦が家の前に捨てられた捨て猫を飼う。その猫と夫婦の生活雑感の一部始終。

  いつの間にかウツラウツラとしてしまい、しくじったか…と、私は思った。それで、咄嗟とっさの勢いで目覚ましをつかむ。昨晩、眠気を封じるためにコーヒーを啜ったのがいけなかった。結果として、夜が更けても寝つけず、ええい、もう朝まで起きていてもいいや…と自棄やけ気味な発想に及んだのだが、人間の生理的欲求というのは妙なもので、いつしか微睡まどろんでしまったのだ。起こされたのは凡太によってである。無意識でアラームを止めていたのか、空が白々と夜明けを主張しているのに、私は目覚めてはいなかった。

 凡太はうちの飼い猫である。今年で三齢になる雄猫だ。ミャーミャー(アメリカだとミューミューなんだろうが…)と呼ぶ声は朝の餌を求めていたのだろうが、私にとっては至極、幸いであった。彼が目覚ましの代役を立派に果たしてくれたからだが、私には期待していない出来事だった。それは、特に休日の場合だが、私が、ぐっすり寝入っていると、彼もまた深い眠りの中にいる。それが、である。

「……、……!」私は、ガラス戸を両前足の爪で掻きながらミャーミャ-と啼く声に、はっ! と目覚めた。目覚ましは七時半を既に回っている。何もかもを半散らかしにして、私は慌ただしく着替え、台所へ行く。

「あらっ? あなた…、今日は休みじゃなかったの?」と、威風堂々、家のぬしとでも云えそうなカミさんが、私を怪訝けげんな目つきで見る。「……」思わず私は、停止した時計となった。アッ! 何のことはない。今日は土曜だったのだ。昨日は…と辿ると、明日は土、日の休みだからというので寝つけぬまま調べ物をして…、つい寝入ってしまった。そうそう、そうだった。

「凡ちゃんの食事、お願いね。今、手が離せないから…」と云いつつ、カミさんは朝食の準備をする。

 先ほどまで寝室のガラス戸を相手に爪研つめとぎをしていた凡太だが、今はもう、うざったい表情で、台所の片隅で毛繕づくろいをしている。

  このグルーミングという行為は、私が買い求めた動物飼育本によれば、猫本来の重要作業の一つだそうである。うちの凡太も例に漏れず、片足を上げた妙な姿勢で毛並みをナメナメしている。この仕草が私は好きだ。思わず愛しくなったりする。

  凡太が捨てられていたのは、凍て尽くした外気が肌を刺す、厳寒の夕方だった。その日、私は外套の襟を立てながら勤めの帰路にあった。ようやく我が家の外灯が見える。疲れからか両足の運びも重く、しかも垂直に落下する砂状の粉雪が、冷たく体のあちこちに纏わりつく。雪は好きだからいいとしても、疲れた身体に、冷えは流石さすがにきつい。

 玄関へ回ると一つのダンボール箱が置かれている。誰かの悪戯いたずらか…とも思えたが、とにかく中を開けてみた。すると、中には一匹の子猫がうごめいていた。小さくニャーと愛想を振りく。彼? にしても必死なのだ、と思えた。局所を確認して彼であり、彼女ではないことが判明した。

 雪はサラサラと、無言に降っていた。

「おい! 今、戻ったぞ…」

 いつもより、やや大きめの声で、私は帰宅を告げた。

「お帰りなさい。あらっ? どうしたのよ、それ…」

「いや、俺もな、それを訊こうと思ってさ。外に置いてあったんだが…」

「捨て猫? まあ嫌だわ。わざと玄関に捨てたりする? 普通」

 私は黙ったまま、中途半端にうなずいていた。

 白くうごめく物体は大人しく鳴りをひそめている。真っ白な外観に、雪の落とし子か…と、淡い思いが、ふと浮かんだ。

「これも何かのご縁だ。なあ、飼ってやろうや、俺が面倒見るからさぁ」

 そう私が云うと、「私は別にいいわよ、猫は嫌いじゃないし…」とカミさんは、あっさり応諾した。

「じゃあ、これで決まりだ。よかったな、おい」

 小さく人差し指でつつくと、またニャーと可愛い声で微かに鳴いた。

 こうして私達夫婦と、か弱き子猫一匹の生活が始まったのである。

 名前の由来は、彼が一齢になった頃にさかのぼる。それまで名前がなかったのか? という疑問に敢えて答えれば、あることはあった。それも、カミさんの命名、私の命名が、とっ換えひっ換え、実に数度にも及んだのだ。一年が巡った頃、他愛もないことが理由で、彼は凡太として華々しくデビューすることになった。

 動作に敏捷性が全くない。最初は子猫の所以ゆえんかとも思ったが、「ニャーニャーよく鳴くわりには動きが鈍いわねぇ…」とカミさんが愚痴り、「猫ってのはそんなもんだよ、なあオイ!」白い物体にそうは云ったが、目と目が合って彼はニャーと云うだけで、まったく要領を得ない。

「ボーンとしていて、風格があるじゃないか。凡太ってのはどうだ?」

「ボンタ? さあ、どうかしら…。なんか猫らしくない気もするけど…」

「いいじゃないか、凡太。平凡の凡に太るで凡太。いい名前だ…」

「どうでもいいけど…。この子もさ、いつまでも名無しの権兵衛じゃ可哀想だし…」

「そうだよ、今度こそ決まりだな」

 という訳で、彼は凡太と名乗ることになったのである。

 彼にはお気に入りの場所がある。その場所というのは裏手にある庭の一角なのだが、彼はそこが大層ご満悦なのだ。私とカミさんが口喧嘩していると、彼は良からぬ雰囲気を未然に察知して身の逃避を図る。そして、裏手へ回ると、まず間違いがない程の確率で、庭のその隅の一角にユッタリと座り瞼を閉じる。やがて私達の喧嘩が終わると、何故それが分かるんだ…という正確さで、また部屋へこっそり戻ってくる。

 去年と同じように、厳寒の冬がやって来た。凡太は? というと、寒さが気にならぬ風情で、冷気が舞う中、例の場所にドッカと身を委ねている。まあ、幾分か風除けのような窪地ということもあるのだが、彼がそこに存在するときは、一定の法則めいた決まりがあることに初めて私は気づいた。彼は四齢になろうとしていた。

 ハイテンションの彼は、ミャーミャーと愛想を振り(くのだが、ロウのときは、ひと声も発せず寝入っている。近づくと、気配を察知してか、スクッと立ち上がり、例の場所へと去ってしまうのだ。つまり、例の場所というのは、彼が安楽を得るのに好都合の場所だ、ということになる。そこでロウをハイにしているのかは定かでないが、とにかく彼はそこへ行く。

「…、心地いい場所ですか? それは人にもあるでしょう。猫だって同じですよ」

 凡太が食欲不振に陥ったとき、動物病院へ連れて行ったのだが、そこの先生に訊くでもなくそう云うと、先生は笑いながら、そう答えた。

「四齢といえば、人間なら三十は、いってます。まあ、ストレスも出てくるでしょうしねぇ」

 付け加えて先生はそうも云ったが、私からすれば、彼にストレスを与えたこともなかったし、また彼がストレスを溜めているようにも思えなかった。

 粉雪が、また直下している。上空からサラサラとふるいで粉を落とすように…。

 凡太は例の庭角すみの窪地に身を委ね、毛繕いをしている。幸い、雪はかからないのだが、寒いことに変わりはないだろう。なにせ、屋外なのだから…。

「 あらっ、お隣のミーちゃんだわ」

 カミさんが、不意に口にしたのを、偶然にも私は小耳にした。急いでガラス戸へ近づくと、確かに隣の三毛猫だ。カミさんがミーちゃんと呼ぶのだからそうなのだろうが、それまで私は彼女に一面識もなかった。二匹は何やら猫語でニャゴニャゴとやっている。

「随分、仲がいいじゃないか…」

「あら、あなた知らなかった? 私は、ちょくちょく見るんだけど」

「凡太もなかなかやるじゃないか、彼女を通わせるとは…」

 凡太は白の一毛だが、ミーちゃんはかぶら猫と表現できる、ふっくらした容姿の三毛である。

 これが、全ての疑問を一度に払拭する出来事となった。

  何のことはない。要は、凡太がストレスを発散していた例の場所とは、二匹のデートの場所だったのである。テンションを下げた彼が、単に例の場所でいこってハイに戻ってきたのも得心がいくし、私が何故だろう…と、疑問に思っていた点もうなずける。つまりは、ミーちゃんと会っていたのか…と思えて、凡太の方をチラッと垣間かいま見た。彼は注視されていることなど気にも留めず、器用に手をナメナメし、その手を顔に擦りつけて男前になる。

「親の責任ってのは、どうなんだろうねぇ。放っておけば、ミーちゃんも孕んじまうんじゃないか?」と、テレビに釘付けのカミさんに云うと、「仕方ないじゃない、それはそれで…。凡ちゃんが悪い訳でもないし、ミーちゃんが悪いということもないんだから…」と、返された。私は、「……」である。

  また雪が舞いだしていた。庭は、既にうっすらと白いベールに覆われている。いつのまにか主役の凡太は部屋へ戻ってきていて、温風ヒーターの近くで心地よい寝息を立てている。

  宅のミーになにを! ってなことに、ならなきゃいいがなあ…と私は馬鹿馬鹿しくも思った。世の中それだけ平和だってことか…、有り難く思わにゃいかんな…、と私はまた思う。凡太はゆったりと毛並みを揺らして寝入っている。カミさんは煎餅をかじりながら、テレビに見入っている。私はガラス越しに深々(しんしん)と降りしきる粉雪をながめている。


                  完

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