あった。何が?あった。
不思議な光景を見たことがあるだろうか。いや、違うな。現実では起こりえない現象を見たことがあるか、と言ったほうがいいかもしれない。
僕は先日耳を見た。あなたにも僕にもついている耳だ。渋柿のようないびつな形をしていた。僕はそれを見た。喫茶店でコーヒーを飲みながら本を読んでいた時、ふと目の前に現れたのだ。耳なのに声、いや音を発するんだ。どこにそんな機能があるか僕は疑問に思った。ここで僕の考えが少しおかしいと気づく。耳というものは、常に誰かに接着していなければならない。そもそも耳がそこに置いてある時点でおかしいと気づくはずなんだ。
周りの人は別に不思議がらずに、それぞれの作業に没頭した。まるでそれが当たり前に存在しているという体で、キーボードを打ち込んだり、話し声が聞こえる。
「耳さん。君は何をしている?」
僕は携帯で電話をしているふりをして、耳に話しかけた。しかし、何か言っているのかはわかるのだが、それを認知できない。
「耳さん。何か聞きたいことはあるか?」
耳はうねりくねり段々と赤くなり、血管の青さが浮き出ている。
「それは頷いているのか? それとも苦しんでいるのか」
「楽しいんだ」
耳の言葉が何故か今認知できた。
「楽しい?」
僕は尋ねる。
「聴くのが楽しい。だから何か言って。それが快感なんだ。怒り、悲しみ、喜び、恐怖、苦しみ、声って感情を司るんだ。だから僕は人の話を聴くのが好きだ」
「僕は今本を読んでいるだけだ。感情は本にある。だから耳さんの要求には答えることができない」
耳は急に黙り込んだ。というより、元の姿に戻ったと言うべきか。
「あなたも見えるの?」
隣に座っている、赤いメガネの女性が話しかけてきた。
「何をですか?」
「口が」
口? 見える? まて、そもそもおかしい。こんな事が現実にあり得るのだろうか。
「口は見えません。耳なら見えます。話しかけきます」
メガネを中指でベストポジションに直した。そしてポケットに手を入れライターを手にした。
「この場所は禁煙ですよ?」
女性はわかっていると頷き、そのライターで口を炙り始めた。
「このようにしないとダメなんです。ここの喫茶店で時々あるんです。体の一部が話しかけてくるって。不思議なことじゃないです。みんなあることなんです。でもいいことではありません。元あるべき場所に戻った方がいいです」
彼女はそう言うと、耳を手にとり、自分にもとの位置にくっつけた。
「このこと秘密にしておいてくださいね」