65話 【哀しみを呼ぶもの】
魔法陣の黒い文様を縁取るように、淡い虹色の光が揺らめく。
はっとして飛び退こうとしたエディアルドを引き止めるように、『だいじょうぶ』という声が聴こえた。驚いて視線を向けた先に、白く揺らめく女性の姿があった。女性――というよりはまだ幼さを残す少女のようだと思い直す。
『だいじょうぶ。危なくは無い。崩しているだけ――』
「……どういう、事だ?」
『やっと…やっと、終わらせることが出来る』
「……何を」
『長かった。間に合わないかと思った。もう、無理だって何度も諦めかけて――でも、諦めるなんて、出来なかった…』
ほろほろ、と淡く光るものが少女の頬を伝い消えて行く。
少女の背後ではゆらゆらと蠢く樹の根が黒い箱を囲むように集まり、張り付いて行く。良く見れば、黒い箱に刻まれた文字も淡く虹色に光を放っている。
いったい何が起こっているのかと驚愕していたのはエディアルドだけではなく、直ぐ傍でウィルフレッドもまた目を瞠り同じものを凝視していた。
「…あれは、何だ?」
訊きたいことは色々あった。けれど、目の前の幻のような少女がまともに答えるかどうかはエディアルドには判らない。先程から話し掛けても会話になっているとは言い難い返答ばかりだったから尚更だった。
『あれは檻』
まともに答えが返って来た。意外だった。
『滅びへの道標』
返って来たが、意味はさっぱり解らない。
『百年を超えて凝る、呪詛の要』
「呪詛だって!?」
『今なら、まだ間に合う…』
ほろほろと光を零す瞳がひたりとくまに向けられ、ゆっくりとエディアルドへと戻る。
『助けて――可哀そうな、あのこを――』
「あのこ?」
「おい、エド!?」
『足りないの。でも、毀すだけならまだ出来るから…』
ピシ、と。何かが罅割れるような音が微かに響いた。
『止めたかった。止められなかった。誰のせいでもないけれど、きっと誰のせいでもあった…。何がいけなかったの?わたしは、どうすればよかったの?泣いてはいけなかったの?怖がってはいけなかったの?だからあんなことになったの?もう何も判らない。――判るのは、あのこを犠牲にしたらいけないってことだけ』
ほろほろと少女が光を零す度に、黒い文字を縁取る虹色の淡い光が揺らめいて文字を覆っていく。
その様子を見ながらくまは次第に落ち着かない気分になっている自分に戸惑い、エディアルドの足にしがみついていた腕にギュッと力を込める。
『毀すだけなら、少し前に出来るようになっていたわ。でも、あのこは死んでしまう。それじゃあ意味が無い――あの国と同じになってしまうもの』
どこかで聴いた声だとくまは思った。
つい最近、聴いた声だと。
『おねえさん』
「くま?」
『…なあに?』
『おねえさんにアタシ、どこかで会った?』
『――会ってはいないわ』
「…」
エディアルドは少女とくまの会話が成り立っている事に驚いた。今まで言いたいことだけを言っていたような少女がくまとは普通に受け答えをしている。実体が無い者同士、話が合うと言う事なのかと妙なところで納得し口は挟まなかったが、会話出来るなら最初からまともに対応して欲しいとも思った。
『でも、よく知っているわ』
『…え?』
『あなたが何で、どうしてここに居るのか――わたしは知っている』
『アタシ…アタシは、――だれ?』
くまは震えていた。
自分は誰なのか――。それを知りたくて、探して欲しくて、自分はエディアルドの許へ訪れたのだ。
それをこの少女は知っていると言う。
なんとなく訊くのが怖かった。それでも、訊きたいと、訊かなくちゃいけないとくまは思った。
エディアルドもまた驚き目を瞠っていた。
くま探していた答えが直ぐそこにある。それが齎された時、くまはこのままでいられるのか、それとも――。
不意に襲った予感にぞわりと背筋が粟立つ。
『あなたはあなたである事を知らない』
どこかで聴いた言葉だとくまは思った。
『あなたの身体は、あそこに――』
少女が指差した方向には、蠢く樹の根に覆われた黒い箱があった。
樹の根に張り付かれ、締め付けられ、みしみしと箱が音を立て、刻まれた文字は虹色の光を零し崩れて行く。連動するように、浮かび上がった黒い魔法陣の文字が虹色の光に溶けるよう滲んでいく。
「君は…君は、誰だ?」
目にする現象に驚きながらも少女をじっと見つめ訊ねるエディアルドに、少女は哀しげな淡い笑みを浮かべた。
『…ソフィア…』
それは百年前、誤解から謂れの無い罪を問われ――命を落とした村娘の名前だった。




