64話 【境界線】
頭上で、「体面はいいからとにかくここから離れろ」とか「襲ってくる様子も無いし、マティアス達を見捨てるような真似は出来ない」とか「だからって何が出来る訳でもないだろ」とか「見届けるくらいは出来る」とか、意外と呑気だなと思える遣り取りを聞きつつ、くまは黒い魔法陣の内側で佇む白い女性の影をじっと見つめる。
両手を組み、何かを訴えかけているような様子でこちらを見ている視線は、ずっとくまに注がれている。
お互いに見つめ合う様な形になったこの状況に、自分はこの幽霊と会った事があっただろうかとくまは首を傾げる。思い出せはしなかったが。
『―――』
ふいに、白い女性が口を開く。
声は聴こえなかったが、唇が動いていたので話しかけられた事が判った。
何だろう、とくまが耳を澄ませてもその声は届かない。何度か同じことを繰り返し聴こえないと気付いたのか、白い女性は組んでいた片手を上げて「おいでおいで」というように手招きをした。
おいでと言われても、ここで気軽にほいほいと行ったら何だか拙いような気がして、くまはエディアルドの足をポンポンと叩く。気付いたエディアルドは、丁度いいとばかりに何処までも平行線を辿っていた不毛な会話を中断し、くまを見下ろした。
『エド。お姉さんがおいでって言ってるよ』
「……話が出来るのか?」
怪訝そうに問われてくまは首を振る。
『ううん。なんかしゃべってたみたいだけど声は聴こえなくてね、そしたら、こう、…手招きしてるよ』
くまはそのぬいぐるみの手をくいくいと動かし、白い女性の動きを真似して見せる。
「こちらに来る様子は?」
『えっと…あの黒いわっかのこっち側には来れない…みたい?』
生憎、エディアルドには白い女性の姿は見えないので、くまの話す状況で判断するしかない。それでも幾らか推測することは出来る。
話がしたいのなら傍まで来ればいいのに、あの白い女性は魔法陣の内側にぴたりと止まり、そこから動く様子が全くないようだ。何が理由かは分からないが、円陣の外には出られないという事なのだろう。
何の用があってくまを呼ぶのか。呼ばれたらどうなるのか。何が起こるのか。
確かめようも無く、そのくせくまはともかく自分の身に起こる事は予想出来て、エディアルドは立ち竦むしかない。
危険を恐れて身動きの取れない自分が滑稽に思えて、エディアルドは自嘲する。
二度、魔力を限界まで失ってこの庭で倒れた。三度目が無いとは言えない。だからこそ、今の所原因かもしれない魔法陣に近付くなと誰もが言う。 しかし、とエディアルドは考える。
本当に、それが原因か?
この庭には、顕れた黒い魔法陣だけではなく、もう一つ存在するものがある。
不意に浮かんだ考えにエディアルドは目を眇め、くまが指し示す方向を見つめる。そして迷い無く、足を踏み出していた。
「エド!?ちょっと待て!」
慌てて止めようとするウィルフレッドの腕をすり抜けて、エディアルドは魔法陣へと近付く。
「おい!何考えてる!?」
『エド、いいの?』
エディアルドの足にしがみ付いて運ばれながら、くまは戸惑いを滲ませた声で問い掛ける。
エディアルドはこの庭で黒い円陣に触れて倒れた。その事をくまは忘れていなかった。
なのに、当の本人が平然としているというのが何となく腑に落ちない。
「…呼んでいるんだろう?」
『だけど』
そこにエディアルドが行っても良いのかがくまには判らない。それに白い女の人が呼んでいるのはエディアルドでは無いのだ。
「いい加減、何も解らないような状態に厭いた。じっとしていても何も変わりはしないし、むしろ悪化の一途を辿っている。ここで動かずともいずれどこかで斃れるのなら、自分が納得出来る理由を知りたい。――おかしな事じゃないだろう?」
エディアルドの中では、これまでに起きた経験や事象から確信は持てないにしろ推測が成り立っているのだが、詳しい説明などしないままの行動はウィルフレッドの目に自棄を起こしたように見えたらしい。険しい顔で詰め寄られた。
「その為に死ぬつもりか!?」
『や、やだ、エドぉ…』
ウィルフレッドの怒声とくまの泣きそうな声に苦笑を浮かべ、エディアルドは魔法陣の手前で立ち止まった。
「…そうと決まったものでも無い。そこに居るんだろう?くま」
『う、うん』
エディアルドが足を止めて指差した直ぐ先に、静かに佇む白い女性の姿がくまには視える。その顔が嬉しそうに綻んだ事にくまは驚く。そして微笑んだまま、その腕をエディアルドへと向けて真っ直ぐに伸ばした。
何故、自分を呼んでいたのにエディアルドに手を伸ばすのか。
何の意味があるのか、その腕に触れたら何が起こるのか、くまには判らない。それでも、彼女はその伸ばした手に触れて欲しいのだと望んでいる事は判る。
『エド。…お姉さんが腕を伸ばしてる。たぶん、触ってって』
「…この辺か?」
『もうちょっと前。…もうちょっと。…あ』
怖気付く事無く伸ばしたエディアルドの指が、白い女性の掌に触れる。
その刹那。
足元の黒い魔法陣が光を放った。
遅くなってしまって誠に申し訳ありませぬ…!




