63話 【留まる理由】
なかなか進みませんね…。
べしゃり、と壁に投げ付けられたぬいぐるみがポトリと落ちるのを確認する事無く、くるりと振り返ったエディアルドは、何事も無かったかのように弟妹へと笑顔を向ける。
「エルス。シャロン。ここに近付いては駄目だと聞いていなかったかい?」
「「ごめんなさい、兄上」」
こういう時、エディアルドのにこやかな顔に騙されてはいけない事は、産まれてからの付き合いであるだけに二人ともよく知っている。誤魔化そうとしたり言い訳をしたりすると、きつい御説教が待っている。自分の行動に少しでも非があると思うのなら、即行で謝罪しないと後が怖い。
エディアルドは殊勝な二人の態度に少しだけ眉をピクリとさせたが、何かを口にする前にウィルフレッドが割り込んだ。
「殿下方!呑気に構えてる場合じゃないでしょう!直ぐに退避して下さい!!」
「そうだな。ニナ。エルス、シャロンを連れて安全な場所へ」
今の所、蠢く樹の根はこちらに襲いかかって来てはいないが、いつ状況が変わるか判らない。それでなくとも作業していた者達が突如として倒れているのだ。エディアルド達の居た場所には影響が無かったが、いつまでもこのままとは限らない。
それが解っていて自分は残ろうとしているエディアルドに、ウィルフレッドは怒鳴りつけたい衝動に駆られる。
一応、人の目があればそれなりに取り繕って丁寧に話す彼だったが、今は外聞を気にするような相手は皆倒れているので、ここには居ない。なので、自分の安全を後回しにするエディアルドを、ウィルフレッドは誰に憚る事無く叱りつけていた。
「ばっかやろう!お前も避難すんだよ!」
「いや、しかし、彼等を放って置く訳にもいくまい?」
「今ここでお前に何が出来る!?」
「何も出来ないかもしれないが、見届けるくらいは……」
黒い円陣に触れれば、エディアルドは十中八九倒れる事になる。
倒れた作業員は全て円陣の中に居るのでエディアルドが連れ出す事は出来ない。
ウィルフレッドにしたところで、護衛対象であるエディアルドを放って彼等の救助に向かうのは立場上難しい。
侍女のニナに至っては女性である。危険に放り込む真似は、男としても騎士としても絶対に出来ないし、したくは無い。
何をするにしても人手が足りないし、危険を避けるべき人間ばかりが此処に居ては動きが制限される。
とにかく、王子王女達を避難させて救助に当たる人員を手配しなければ、と実力行使しようとしたウィルフレッドの耳に、どこか呑気な声が届く。
『……あ。エド、エド』
下を見ると、先程壁に投げ付けられたくまはダメージを受けた様子も無く、エディアルドの足元まで戻って来ていた。
ぽふぽふとエディアルドの靴を叩き、くまは庭の中央を短い腕で指し示す。
『白いお姉さんが、こっちに来るよ』
「何?」
振り返った先、樹の根が蠢く庭の中央付近には倒れた作業員達が見えるばかりで、『お姉さん』と呼ばれるような女性は見当たらない。
思い当たるのはマティアスが話していた『白い女の影』だったが、誰の目にも捉えることは出来なかった。
「誰か、…いますの?」
「お姉さん…ってことは、女の人だよね?」
女の人以外で『お姉さん』っているんだろうか?とくまは不思議に思ったが、自分に見えているお姉さんは間違いなく此方を見ているし近付いてくるので、何だか無視していてはいけないような気がした。自分もずっと誰にも見てもらえなかったので、なんとなく同族意識のようなものがあるのかもしれない。
『こっち見てるよ』
「どの辺りだ?」
『えっと、もう…すぐそこ。あの黒いわっかのとこに…』
「…見えませんわ」
「見えないですね」
なんとなく、じりっと後退りながら、それでも女性陣の視線はくまの指す方向から逸らされない。自分に見えないモノがそこに在ると言われれば、本能的に距離を置きたくなるのかもしれない。
男性陣はその場を動くことこそなかったが、目を眇めてくまの示すモノを見極めようとしていた。
「くま。そなたには視えるのか?」
『うん?…え?みんな、見えないの…かな?』
不思議そうに首を傾げるくまは、自分もマティアスの魔道具が無ければ誰にも――エディアルド以外には見えなかった事を失念しているらしい。
もしかしたら同じ幽霊という立場だから視えることは当り前なのか、とエディアルドは思い至る。そして以前この庭でくまが酷く怯えていた事も思い出した。
あれ程怯えていたのに、今のくまはその事を忘れているかのように見える。あの時と今では何かが違うのだろうか?
「くま。前にここに来た時、ここが怖いと言っていたな?」
『…うん』
「今は怖くは無いのか?」
『ええと。…あれ……?』
エディアルドに問われて、くまは以前よりも自分が怯えていない事にようやく気付いた。
怖く無くなった、訳ではない。怖いと思う気持ちはあるのに、何故かそれが薄れている気がするのだ。
マティアスや作業をしていた兵はばったりと倒れているし、大きな穴は掘られているし、太い樹の根はにょろにょろとうねって以前よりも状況的には悪いと言える。なのに、じっと黒い魔法陣を見ても、不快感はあるのに逃げ出したいと思うまでの恐怖は無い…気がした。
『……なんでかな?』
「訊きたいのは私の方だよ……」
「どうでもいいから早く避難しやがれ!?」
「ウィル、言葉遣い!」
首を傾げるくまに溜息を吐くエディアルド、呑気なふたりが動こうとしないので苛ついて怒鳴るウィルを窘めるニナ。周囲が異常であるのに、あんまりいつもと変わらないような兄達に半ば呆れつつ、エルステッドとシャーロットはどうするべきかと顔を見合わせた。
「精霊様の仰る女性は見えませんし、この場所でわたくし達に出来ることはありませんわね」
「珍しく正論だね?面白そうだから見物するとか言うと思ってたよ」
普段のお転婆な行動からは想像出来ないシャーロットの発言を、エルステッドは「おや?」と意外に思う。そんな兄の反応に、シャーロットは可愛らしく唇を尖らせた。
「さすがにそこまで無茶は言いませんわよ。気にはなりますけれど、ウィル様の負担を増やす訳にはいかないでしょう?」
「本当は兄上達も退避して欲しいんだけどね。あの人達を見捨てたらとやかく言う輩が出そうだからね」
「お兄様の立場上、あっさり逃げ出す事は難しいでしょうけれど…」
身体が弱いとはいえ、国民の上に立つ王族である。
職務により倒れたと言っても、作業をしていた兵達も国民には変わりがない。
その場に居合わせ、危険かもしれないという予測だけですぐさま民を見捨て、現場を放棄するような行為は、上に立つ者としては外聞がよろしくない。
面と向かっては口にしなくとも、臆病者、卑怯者と、口さがない者達は陰でこそこそと言うに違いないのだ。
エディアルドだけの評判なら彼は気にもしないだろう。けれど、それが王族全体に及ぶ可能性がある限り、エディアルドは自分の安全よりも王子として謗りを受ける事の無い行動を優先させるだろう。同じ教育を受けているエルステッドとシャーロットだからこそ、何の手筈も整えないままエディアルドがここを離れることは無いと解っている。
「せめてマティアス殿が無事なら任せる事も出来たんだけどね…仕方無い。とりあえず父上に状況報告をしに行こうか。シャロンは母上がこちらに来ない様に周囲の口止めと通路の封鎖をしといて。兵の手配はこちらでするよ」
「解りましたわ。ニナ!行きますわよ!」
「え!?あ、でもエディアルド様を置いては…!」
シャーロットに腕を取られ引っ張られるように走り出したニナは、慌ててその場に残るエディアルド達へと目を向ける。
「この場はお兄様とウィル様に任せておけばいいのですわ!わたくし達が居ても出来ることはなくてよ!」
「…っ、はい!」
まだ幼いと言える王女であるが、シャーロットは王族としての教育を受けている。普段は我儘一杯に見えても、状況の判断と対応に関しては兄達と同じようにみっちりと鍛えられている。いざと言う時、下の者を従わせられないのでは困るからだ。
「兄上、御無理をなさいませんように!直ぐに戻って参ります」
「ウィル様!お兄様を頼みます!何かある前に担いで逃げて下さいましね!」
言い置いてニナを供に走り去る王子と王女を見送り、ウィルフレッドは肩を落とす。もはや癖となりそうな盛大な溜息を落とし、隣に立つエディアルドに視線を戻す。
「…いや、今、逃げて欲しいんだがね…」
「本当に危険だと判断したら、走って逃げるよ」
「間に合う気がしない…」
「その時は諦めろ」
「簡単に言ってるんじゃねえよ…!」
「すまないな」
長年の付き合いで、エディアルドが口で言う程に悪いと思っていないのが解る自分は報われない、とちょっと悲しくなるウィルフレッドだった。
しかし、動かない王子様だな!
エドが活躍する機会がない。なぜだ~。
(A:作者の設定のせいです…。すまん、エド)




