52話 【神官と白い影】
マティアスのターン。
止む気配を見せない雨の中、マティアスは黒い魔法陣のある庭へと足を運んでいた。
陣の写しは既に取ってあると言う事だったが、何であれ、自分の目で確認した方が正確に判断出来る。マティアスはこれまでずっとそうして物事に当たって来た。
魔法陣が反応したのはエディアルドだけだと聞いてはいたが、不変であるものなど一つとしてない。だからこそ慎重に、黒い円陣の中に靴先を入れてみる。
何も起こらない。
次はもう少し、足先を。異常の有無を確かめながら一歩、また一歩、とゆっくりと足を進めて行く。とりあえず、この魔法陣は自分の身体にも無反応であるようだと判断し、もう一つの目的である中央の樹へと近付いて行く。
葉が全て落ちた、冬の寒さに耐える為に眠る樹。
この樹は、今まで一度も花を咲かせた事が無いという。
それが白い女のせいなのか、此度浮かび上がった魔法陣のせいなのか――全く関係が無い可能性もあるが。
雨の為に月や星明かりなどは無いが、代わりに魔道具で臨時の外灯が庭全体を照らしている。
突如顕現した魔法陣を監視する為の措置としては正しい。現時点で動きが無いとはいえ、何時、何が起こるか判らないのだ。目を離す事など出来はしない。
その灯りに浮かび上がった樹の幹は青白く、寒々とした印象を受ける。
もう、あと二歩も進めばその幹に手が届く、という位置でマティアスは足を止めた。
「…こんばんは?お嬢さん」
薄らと、目を凝らさなければ判らない程に淡く、白い影が樹の根元に佇んでいた。
何故『お嬢さん』と呼び掛けたかと言えば、薄い影の服装がスカートであった為だ。おそらく相談に来た兵士もこの服装から女であると判断したのだろう。
あとはこの影と意思疎通が可能かどうかだが、どうやら此方の声は聴こえたらしい。
ゆっくりと不思議そうに、顔がマティアスに向けられた。
「私の声が聴こえますね?」
女性と思しき白い影は、こくりと頷いた。
「何か、言いたい事はありますか?」
また頷いた影の口が、何かを話すように動く。けれど、残念なことにマティアスにその声は届かなかった。
「…申し訳ありません。私には貴女の声が聴き取れません」
ゆらゆらとその輪郭を揺らめかせながら、白い影は戸惑うように首を傾げた。やがて、声が伝わらないと理解したのか、すっと樹の根元から動き始めた。
すす、と滑るようにゆっくりと白い影は移動し、ある一点でぴたりと止まった。
その動きをじっと追っていたマティアスが確りと視ている事を確認するように、白い影は身体ごと振り向き、ゆっくりとその場所――己の佇む地面を指差した。
「…其処に、何が…?」
伝えたい事があるから、白い影は現れた。
それは判る。指差す場所に何かがあるのだろう。けれど、それは何だ?
問い掛けたマティアスを白い影はしょんぼりと見つめ返す。何度か口を開いたようだが、伝える事が出来ず項垂れる。
あのぬいぐるみに憑いた少女がエディアルドにしか視えず声も聴こえなかったように、この白い影にも何かが足りないのだろう。
邪なものでは無い事は視れば判る。
邪悪に染まれば影は淀み、次第に濁り黒くなっていく。
この影は白い。
いつから此処に居たのかは判らないが、その存在が薄れる程に長い時間を経ている筈だ。それでも濁らず、白いのは稀有な事だと言える。
それでも、誘導されるままに動く訳にはいかない。この場所が開けた野原であればよかった。でなければ、人が踏み入る事の無い森であれば。
だが、此処は王城なのである。しかも、エディアルド王子の命に係わる魔法陣が存在する場所だ。示された場所を、何の根拠もないままに触る事は出来ない。
せめてこの影の声が聴けたなら。
そう思いはしても、あの少女のように推測出来る切っ掛けがある訳ではないので、何か魔道具を造ろうと思っても構築が難しい。
むう、と白い影を見つつマティアスが悩んでいると、その白い影がじれったそうにくるくる回り出した。
指差した一点を軸にして。
「ああ…いや、まあ。何となく言いたい事は判りますが。…そこを掘って欲しいんですよねえ?」
マティアスの言葉にこくこくと白い影が頷く。
「あー…無理です」
断るとびっくりしたように固まり、すすすっとマティアスに駆け寄って来た。そのままじっと見上げてくるのは、『どうして?』と訊きたいからだろうか。
「この庭にある魔法陣…判りますか?黒い円状…環っかですね。この魔法陣が何の目的で、どんな効果のものなのかはっきりするまで、この場所そのものに迂闊に手を入れる事が出来ません」
説明して理解出来るだろうか、と思ったマティアスだったが、白い影は首を傾げて考え事をするように暫く動かなくなった。
どの位経っただろうか。
そう長い時間ではなかったが、黙って立っているには寒いと感じ始めた頃、白い影が動いて手招きをした。
訝しく思ったマティアスだったが、何か伝えたい事があるのなら、と影の後を追う。
相変わらず滑るように移動した白い影が止まったのは、黒い魔法陣の五重の最内円だった。未だ解析出来ない文字の一部を指差している。
白い影の横で覗き込んだマティアスは、其処に何があるのかと見つめていたが、やがてその指差した一部分だけが他に比べて妙に歪に見えてきた。
おや?と意識してみて、ようやく判った。
「欠けている…?」
ほんの僅か、気をつけて視なければ気付かない程に違和感薄く、魔法陣を構成している文字が一つ欠けていた。
正解だと言うように白い影がこくこくと頷いている。
マティアスは疑念を滲ませ、白い影を凝視する。
偶然だと思っていたが、それはマティアスの勝手な憶測でしかなかったらしい。
「…貴女は、この魔法陣が何であるか…知っているのですか?」
先程まで穏やかに話していたマティアスの態度の変化に、戸惑ったように首を傾げていた白い影は、それでもマティアスの問いに素直に応えた。
こくん、と首を縦に振る事によって。




