44話 【沈黙】
ぴくり、とエディアルドの瞼が震える。
浮かび上がった意識が捉えたのは、これ以上無い程の身体の不調。
手足がまともに動かない。指先に血が通っていないんじゃないかと疑うくらい、凍えて痺れているようだ。背筋を引っ切り無しに襲う悪寒に身動ぎしようとして、あまりの脱力感に身体が泥に沈み込んでいくような錯覚を覚える。無理やり瞼を開けば途端に視界がぐるぐると回り、吐き気を催す程の眩暈に再び固く目を閉じる。
「……ぅ、ぐ」
「…気付いたか」
耳に届いた声は聞き慣れた幼馴染のもので、滲んだ安堵の色がまた心配を掛けてしまったとエディアルドに悟らせる。
「…ィル、す、ま…」
「いい。それより、大丈夫…じゃ、ねえなぁ」
詫びようとしたエディアルドの声を遮り、ウィルフレッドは大きく息を吐いた。
まだ顔色は悪い。声も掠れている。それでもエディアルドの意識は戻った。危険な程に減少していた魔力が幾らか戻った証だった。
「…だ、るい。気持ち、悪…」
「すまん。今すぐ部屋に戻してやりたいところだが、俺もちょっと動けんわ…」
それだけでエディアルドにはウィルフレッドが動けない理由が解ってしまった。
すまない、と謝ることは簡単だが、それを喜ぶような相手ではない事が解っている。
以前、誰も彼もがエディアルドに己の魔力を与えようとしていた頃、その行為を無駄だと制止した。二度と自分の為に倒れるような真似をするなと。
ウィルフレッドが動けないのはそのせいだと解っていても、余計な真似、と今は言えなかった。言える訳がない。
「わ、たし、は…ど…して…」
「ああ…なんか妙な魔法陣があってな。うっかり踏んだっぽいぞ」
「魔、法陣…?」
「ま、詳しい事は元気になってからだ。応援呼んでるから少し待ってろ」
訊きたい事は山程あった。
それでも、ウィルフレッドの言う通り、体調が戻らなければ何も出来ないとエディアルドは気になる全てを訊くことは諦めた。
ただ、一つだけ――。
どうしても、今、訊いておきたいことがあった。
「ウィル…くま、は…?」
「…」
二人の話し声しか聴こえなかった静かな庭。遠くから人の声と足音が近付いて来る。ざわめきの増す中、いつも子供のように騒いでいたくまの声だけが聴こえない。皆に声を伝える魔道具が壊れてもエディアルドだけには届く筈の声が、しない。
エディアルドの問いにウィルフレッドが答えることは無く、代わりの様にそっと胸の上に置かれたものがある。
既に馴染んだ重み。
「…くま…?」
エディアルドの呼び掛けに返るくまの明るい声は無い。
「く、…ま…?」
「…お前の意識が戻ったのは、たぶん、そいつのおかげだ」
「なに…」
普段の軽さが鳴りを潜め、低く響くウィルフレッドの声。
「お前が動く為に。『ぜんぶ、あげる』――そう、言ってた」
何を、とは訊けなかった。
倒れたエディアルドに足りなかったもの。それを補おうとしたのなら、くまが『あげる』と言ったものは一つしかない。
「それっきり、そいつは動かない。どうなっているかは…俺には判らんよ」
「そ、うか…」
エディアルドが薄らと目を開くと、胸の上に乗る茶色のぬいぐるみが見えた。
微動だにしないそれはただのぬいぐるみにしか見えず、中にまだくまが居るのかどうかすら判らない。
元々が消えかけていた存在だ。
その存在する為の力を、全て使い果たしてしまったというのだろうか。
馬鹿じゃないのか、とエディアルドは思った。
このまま消えるのはダメだと嫌がっていたくせに。
こんなにもあっさりと居なくなるのか?
思い返しても短い付き合いだ。
けれど、凪いだ水面に小石を投げ込むように、変化に乏しかったエディアルドの生活は賑やかなものになった。
お茶が飲めたと喜ぶ声。
話をする度に不思議そうに、面白そうに驚いていた。
皆と話が出来るようになって楽しそうに笑っていた。
からかわれてはちょっと怒り、優しくされては照れて、訳が解らない事には怯えて。
ずっと、傍に居たのに。
仔猫が産まれたら、一緒に見に行こうと言っていたじゃないか。
それなのに。
未だに揺らぐ視界に堪えかねないように、エディアルドは目を閉じる。
頬を伝った温かなものは、苦しさが促したものだったのか。
「くま…?」
エディアルドが呼ぶ声に、応えはない―――。




