3話 【おじゃまします。】
書き忘れを発見したので一部追加。
あれだけ死ぬ死ぬと喚いていたくせに、どうやらぬいぐるみのくまはすでに死者だったらしい。しかし、幽霊だと自覚している割にはみたいとか、あやふやな表現なのは何故だろう、と青年は思う。
くまは相変わらず床に縫い留められたままだが。
『ええと、起き上がりたいんですけど。剣を抜いてもらえないですかー?』
「断る。貴様が安全であるという保証がない限り自由には出来ん」
『ええー?危険なんてないですよ?そもそもこの身体、綿の塊よ?叩いても痛くないってば』
確かに綿ならばそう痛くはないだろう。だがその中に武器を隠し持っていないとも限らない。油断は禁物…と、そこまで考えて青年は馬鹿馬鹿しくなって警戒することをやめた。そもそも命を狙われる理由が青年には、無い。
これが数年前だったら違ったのかもしれないが、今では争いから遠ざかり平和なものだ。見下ろせばのほほんとした気配の自称《幽霊》のぬいぐるみのくま…そのつぶらな黒い瞳が妙に和む。そういえば、と青年は思い出す。
「…たしかシャロンが似たようなぬいぐるみを持っていたような気がするな」
『シャロンって?』
「私の妹だ」
『ああ!』
思い当たることでもあったのか、くまがぽふっと両手を合わせる。
『もしかしてこの廊下をずーっと進んで右に曲がって、階段を上がって左に曲がって更にまっすぐ行って右に曲がった棟のお部屋にいるコですかぁ?』
「…何故知っている?」
青年の声が冷たく響く。気のせいではなく周囲の温度までが下がった気がする。
『だってアタシ、そのお部屋から来ましたから!』
「なんだと?」
『や、正確にはこのくまさんを借りて来ちゃったんだけど』
きょとんとした気配で首を傾げるくまに青年は脱力する。道理で見たことがあるような気がしたわけである。まだ12歳のシャロンの部屋にはウサギやら犬やら猫やら、果てはどこが可愛いのかと首をひねりたくなるような爬虫類のぬいぐるみがこれでもかという程に溢れている。
そしてこのくまはそのうちの一つで、シャロンの部屋から来たのだと言う。
「…妹はどうした?」
『あの部屋のコなら眠ってるけど?』
「妹は起こさなかったのか?」
『だって話しかけても気づいてくれなかったし、アタシの大きさじゃ寝台の上に乗れないもの。無理やり起こしたら可哀そうでしょ』
む、とまたしても青年の眉間が寄る。起こすのが可哀そうと言う割にはあのノックはかなりしつこかった。それこそ叩き起こす気満々だったような気がする。
「…妹を起こすのは可哀そうで私なら構わないのか?」
『え?だって、起きていたでしょ?』
「…」
不思議そうに問い返され青年はじっとくまを見下ろす。部屋の明かりは消していた。窓はカーテンこそ閉めてはいなかったが、寝台に横になっていたのだ。眠っていなかったと断言されると思わなかった。
『廊下のヒトは話しかけてもわからなかったみたいだし、他に起きている感じがしたのはこのお部屋しかなくてー』
つまり眠っていなかった人間に用があったということか。
『それでね?ええと、とりあえずお部屋に入りませんか?』
「…何故?」
『やー…、アタシはいいんだけどもー、ぬいぐるみだしね?ただ、アナタの顔色がものすごく悪くなっているようなんですよ~?廊下寒いですしねっ』
そういえば夜着一枚で出て来てしまったのだったか、と青年はようやく《寒い》、という感覚を思い出した。
仕方がない、とぬいぐるみのくまを縫い留めていた剣を引き抜き鞘に納める。どの道、斬っても死なないモノに剣を向けたところで無駄だろう。
くまは邪魔な剣がなくなっても青年に何をするわけでもなく、えっちらおっちらと立ち上がる。ちょっとよろけて立ち上がったくまの腹には、薙ぎ払った時と突き刺した時に裂けたであろう裂け目があり、そこから白い綿がもこもこと覗いていた。
あの中身を抜いたとしたらこのくまは真っ直ぐに立つことができるのだろうか…と、青年はどうでもいいようなことを考えてしまった。現実逃避かもしれない。
そういえばあのコンコンと言うノックはどうやっていたのだろう。ぬいぐるみの手で叩いたにしては硬質な音だったと思い青年が廊下を見ると、少し離れた場所にモップが転がっているのが見えた。
どうやらモップの柄でノックしていたらしい。
なるほどと納得した青年はモップを拾い上げると壁に立てかけてじっと見上げるくまを見下ろす。
「入れ」
このくまが何であれ、危害を加えるようならば斬って捨てればいいだけだろう、と青年は入り口を塞いでいた自身の身体を退けくまを促す。
くまは、ぱっと顔を上げぺこりとお辞儀をした。
『ありがとうございます!おじゃましま~す!』
ぬいぐるみなので表情が解るわけではないが、その声はとても嬉しそうに青年の耳に響いた。