26話 【お月さまは見ている。】
窓の外には、まあるいお月さま。
ふいにそう思い、幽霊(仮)の少女は見えた景色が夜の空だと気付く。
この状態になって初めて『いつのまにか』という感覚を味わう。なるほど、意識が途切れるとはこういうことなのか、と何処かで納得した。
周囲を見回そうとして、自分がまだぬいぐるみのくまの中に留まっていることが解った。
もそり、と身体を起こしてみると、月明かりに淡く照らされた室内がエディアルドの部屋であることが判る。
あれほど賑やかだった部屋は、いまはシン、と静まり返っている。昼とはまるで別の世界のように感じられて、少女は落ち着かない気分に陥った。今まで幾度となく静かな夜を独りで過ごして来たのに、可笑しなことだ、と思う。
「起きたのか」
『!?』
唐突に声を掛けられて、少女は入っていたくまの顔を跳ね上げた。
視線を向けた先には、寝台に身を起こしたエディアルドが周囲に溶け込むように密やかな佇まいで月を眺めていた。
『えっと、えっと…お、おはよう?』
「………おはよう。と、言う時間でもないが。何故、疑問形か?」
『え、だって、こういう時って、なんて挨拶すればいいのか解らないんだもの』
目が醒めたので起きた時の挨拶を、と、ぺこりと頭を下げると、しばらく首を傾げていたエディアルドは、それでもきちんと挨拶を返してくれた。それを嬉しいと思う。
『夜になってるね』
「そうだな」
『眠らないの?』
「昼に眠り過ぎた」
ひとは夜には眠るものだ、と不思議に思った少女だったが、そう言えばエディアルドは熱を出していたのだと思いだした。
『あ!具合、良くなった!?』
「問題ない。少しばかり怠いだけだ」
『そう?なら、よかった』
表情が動かない筈のぬいぐるみなのに、その声音が明らかな安堵を滲ませていて、エディアルドは口許を綻ばせる。
このくま(中身・幽霊(仮)の少女)が目を回してただのぬいぐるみに為り変ってから、丁度良いとばかりに試食会(?)はお開きとなり、様子を見に来たオーエン医師の雷が落ちてエディアルドは安静を言い渡され、一緒に騒いでいた面々は叱られ、ニナ以外部屋から追い出された。
軽い食事を出されたあと飲んだ薬湯には睡眠を促すものが入っていたのか、エディアルドは早々に眠りに落ちた。効き過ぎたのか、夕刻に起こされ食事を勧められても眠気が取れなかった。そうして夕食を摂り薬湯を飲んだあとはまた眠り。
目が覚めてみれば熱は下がったようで、随分と楽になっていた。少し前に倒れた時は随分長引いたので、その時に比べれば意外な程に快復が早い。
ただ、ほぼ半日眠っていたせいか、目が醒めてしまったら今度は全く眠気が訪れない。眠くないからと言って薬で無理に眠ろうとも思わなかったので、ぼんやりと月とくまを眺めていた。
昨夜と同じ、煌々と円を描く月はとても美しかった。
いつもならどれだけ美しくても、安穏とその景色を愛でる気持ちにはなれなかった。月明かりに浮かぶ、静謐といっていい空間は寒々しく、常に生を脅かされるエディアルドにとっては死を連想させる象徴のように思えたのだ。
なのに、どういう訳か今日は穏やかなまま月を眺めて居られる。
独りではないからか、とエディアルドはもそもそと動くくまを見つめる。
昨夜出会ったばかりの、肉体は無く、幽霊とも言えないらしい訳のわからない存在なのに、不思議な程に警戒する気が起きない。
するり、と懐に入り込んだと思ったら何故か当り前のように其処に居る。
実を言えば、この正体不明のモノが取り憑いたぬいぐるみをこの部屋に置く事には酷く難色を示された。特にウィルからは「もっと警戒心を持て!」と怒られた。
実体が無い上に神官すら祓えないと言うものを警戒しても無駄ではないか、と言い返したらもっと怒られた。がみがみと続きそうだった説教がとても短く済んだのは、オーエンとマティアスのおかげだろう。ニナはどちらかと言えばウィル寄りだったろうが、こちらの体調を考慮したのか何も言わなかった。
「くま」
『…はぁ。もー、いいです。何ですか』
「幽霊も酒に酔うものなのか?」
『酒?』
こてん、と首を傾げ訊き返す声は酷く不思議そうだった。
「最後にお前が飲んだ赤い飲み物だ。あれを飲んだ後、まるで酔っ払いのようにしか見えない様子で動かなくなったぞ?」
『う~ん?そう言われてもわかんないですね~。だって初めて飲んだんですもん』
「ふむ。…変な感じとは言っていたが…。茶とはどんなふうに違うんだ?」
『そうですねえ』
くまは寝台に座って腕を組むようにして首を傾げる。
『お茶はね。ほわんとした感じにあったかいの。匂いもね、甘くて好き。』
「ほう?」
『果物の汁はねー、匂いは好きなのとそうでもないのがあってね。なんかちょっとピリピリするの』
「ピリピリ?」
『痛いとかじゃなくてね、なんかピリピリ』
「ふむ」
『そういえばねー。お月さまの色をしたとろんっとしたのがね、とっても美味しかった!…と、思うー』
「お月さまの色でとろん…?――ああ、蜂蜜か」
『蜂蜜っていうのか~。あったかくはないけど、なんかお茶よりもね、ふわん、って気持ち良かったの。あれはとっても美味しいと思う!』
「そうか」
思うって何だ、と思いながらエディアルドはそこには突っ込まずただ頷きを返す。
このくまはぬいぐるみで舌が無い訳だから、厳密に言えば味覚は無い筈なのだが。ひととは違う感覚で味を判断しているのだろうとエディアルドは納得する。
『最後の赤い水はねー…うーん?なんか、飲んだ途端、ぶわーーー!ってなった』
「…ぶわー?」
『うん、ぶわー!なの!周りがぐるぐるしてぐにゃぐにゃってなった』
「…よくわからんが、つまり目が回ったということか」
『かなぁ?アタシもよくわかんない。でも、ああいうのは怖いからヤだな―…』
「そうか」
肉体を持たないのに、どうして茶とか酒とか飲めるのかとか、本当に味が判っているのかとか、何故肉体を持つものと同じように酔っ払ったり出来るのかとか。
色々不可解な点は多いが、考えたところでその答えをエディアルドは持ち合わせていない。ならばありのままを受け入れるしかないだろう。
「くま」
『なに?』
「茶でも飲むか?」
告げられて、ぬいぐるみのくまに憑いた少女はちょっと首を傾げる。
身体を持たない自分に本来の意味での飲み物は必要ない。けれど、お茶を飲むと何だか胸の中がほんのりと温まる気がするのだ。気のせいかもしれないけれど。
だから、お茶を飲むのは好きだと思う。
『…うん、飲む』
こっくり、と頷いたくまから聴こえた声は。
きっと笑顔であろうとわかる位、嬉しそうに弾んでいた。
おまけ
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処方した薬を渡し、暫くして雑用を済ませたオーエン老医師がエディアルドの部屋に訪れると、其処は常になく賑やかだった。
主な原因はシャーロットであったが、まだ幼いと言える彼女は置いても、窘めるべき大人が揃いも揃って混ざっているのは如何なものか。
忘れているのかもしれないが、此処は今現在病人の部屋なのである。
「くぉの、バカ者どもがぁっ!!病人の前で何を騒いでおるか!」
「「「「あ」」」」
怒号によりぴたりと動きを止めた室内の面々は、その発した人物の顔を見てそれぞれに顔色を失くし頬を引きつらせる。
「ウィル坊!何の為の近衛か!幼馴染故の気安さで騒ぐ為ではあるまい!」
「は!面目次第もありません」
「ニナ!世話をするお前からして交じるとは何事か!」
「はい!申し訳ありません」
「神官殿。何の用かは存ぜぬが、貴方も殿下の体調を考慮して頂きたいものじゃな」
「そうですね。以後気をつけましょう」
「シャーロット様。殿下の熱が下がるまでは面会は許可出来ないのは御存じでしたな?」
「は、はい…」
「結構。仲が良いのは喜ばしいことですがの。体調が優れぬ時に御負担を掛けるのは感心しませんぞ」
「ごめんなさい…」
「…オーエン」
「殿下。体調は御自身が良くおわかりの筈。無理をすれば長引くと解っておいででしょう。薬の効果など一時的なもの、休養が何より大事だと御存知ですな?」
「解っているよ」
「ではおとなしく栄養を取ってお休みください。ニナ以外は退室!」
「「「はい!」」」
こうしてエディアルドの部屋に静けさが訪れた――。
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お医者様には逆らえません…。というお話。




