起
真翔は海を知らない。
だから最初に見せたかったのが、この景色だった。
テラスに出ると、白い手すりの向こうに青がひろがる。悠真がスマホを構えて、
「家族旅行一枚目やで」と笑った。真翔はベビーカーの中で足をばたばたさせ、風船みたいな声をあげる。
「美月、あとでプール行こな。その前にコンビニでアイス買う?」
そんな、どこにでもあるリゾートの午後。
ホテルは新しく、廊下は柑橘のにおいがして、ロビーでは知らない家族が写真を撮り合っていた。
地方メーカーで管理職をしている桜井悠真は、会社の重要なプロジェクトを終えたばかりで、普段取ることのできない休暇を1週間ほど取り、高校教師の妻、美月と去年の春に生まれた真翔を連れて、このリゾートホテルにやってきたのだ。
「アイス、いいね!確かホテルの隣に併設されてたよな?ちょっと涼んでからプール見に行こ。」
肩までついているミディアムヘアをハーフアップにして後ろにお団子を作りながら美月が答える。
2人とも、荷物から財布とスマホだけを取り出し真翔をベビーカーから降ろし、抱っこして部屋を後にした。
長い廊下を進み、左に出たところにあるエレベーターでロビーに降り、ホテルの外に出た。
そのときだった。
出口のほうで、男の悲鳴が上がった。――
ホテルの敷地外へ出ようとした宿泊客が、見えない何かに弾かれた。
敷地の外にはさっき自家用車で通ったばかりの道路があるのに、そこへ行けない。
「いって、何なんだよ。」
そう言って男は腕をさすりながらもう一度外に出ようとしたが、同じように見えない壁に弾かれるだけだった。
「外に、出られない...」
男は何が起こったのかよくわからないといった表情をし、それを見た周りにいた観光客の何人かも試しに外へ出ようとしたが、同じく見えないバリアのようなものに弾かれていた。
青白い火花。痺れた腕。ざわめきが波のように広がる。
宿泊客の一人がホテルのスタッフに非常事態を知らせに行った。
その時、そこにいた若い大学生くらいの宿泊客グループが「え、スマホ圏外なんだけど。」「俺も」「私も」と口々に言いだした。
どうやらこの珍しい事態を動画にとってSNSにアップしようとしたらしい。
不謹慎にもほどがあると呆れながら美月も自分のスマホを見たが、同じく圏外だった。
しばらくしてホテルのスタッフがエントランスまで出てきたが、ホテル側も説明できない事態らしい。
警察に通報しようと試みるが、スマホは圏外だ。
楽園は、音もなく檻になった。
唯一つながっていたのは併設のコンビニだけで、レジも棚もいつも通り。
まるで“ここで生きる分だけは許されている”みたいだった。――
しばらくして館内放送が流れた。
《宿泊のお客様は、至急ホールへお集まりください》
ぞろぞろと人が動き出す。
美月は真翔を抱き、悠真と並んで廊下を歩いた。
途中、宴会場の扉が半分開いていて、数人の客がビールを勝手に注いでいるのが見えた。
テーブルの唐揚げを頬張りながら、
「どうせタダやろ」
「非常事態やしな」
笑い声。現実逃避みたいな陽気さ。――この人ら、放送のこと知らんのや。
その違和感が、胸の奥に小さな棘みたいに刺さった。――
ホールには二十数名が集まっていた。
老夫婦、学生、派手なカップル、スーツの男たち。美月たち家族。
ホテル責任者らしい男が前に立つ。
「現在、外部との通信は遮断されています。原因は不明です。安全確保のため、こちら
のアプリを全員ダウンロードしてください」
示されたのは《トランシーバーアプリ》。
この建物の中だけで通じる、不思議な連絡網。
大人たちが次々とインストールするのを見ながら、美月は腕の中の真翔を抱き直した。――この子は、持たれへん。端末も、連絡手段も。
絶対に離れたらあかん。
この場所では、真翔の“外付けの心臓”に自分がならなきゃいけない――そんな感覚
が、静かに胸に沈んだ。
その時、ふと頭をよぎったのが、
――宴会場のあいつらは、これを知らない。――
説明がひと段落すると、いったん解散になった。
人々はざわざわとホールから出て、それぞれの部屋へ戻りはじめる。
廊下の大きな窓から、昼と変わらない青い海が見えた。
太陽にきらきら光って、絵はがきみたいに穏やかで。
前を歩いていた五十代くらいのおじさんが、窓の外をあごで指した。
「――こんなに綺麗な海が見えとるのに、ほんまに外に出られんのかいな?」
誰も答えなかった。
その静けさが、答えみたいだった。――
1時間後、館内放送によって再び呼出されたホールに向かうと、テーブルに折り紙が並べられていた。
一番前のホワイトボードに書かれた文字は
《第一ミッション 鶴を折れ》
「なんやこれ」
「ふざけてるんか?」
ホテルの責任者によると、どうやら我々はこのホテル内に見えないバリアによって閉じ込められており、
こちらから外部へ連絡できないものの、外部からの謎の人物により何やら指示を受けているらしい。
その内容によると、今夜ホテル内の誰か一人を犠牲にしなければならないという。
真翔は美月の腕の中で指をしゃぶっている。
折れるはずがない。
「真翔の分も私がやる」
そう心の中でつぶやき、真翔の目の前にある折り紙を折り、それから自分のにとりかかった。
二羽の鶴を置いた瞬間、背後の中年の男が鼻で笑った。
「それアリなん? 赤ん坊なんかおっても足手まといやろ。死んでも誰も困らへんで。」
悠真が前に出た。
でも誰も味方にはならない。――
その夜、事件が起きた。
宴会を続けていた男が一人、プールサイドで見つかった。
首元には、ぐしゃりと潰れた折り鶴。
トランシーバーが一斉に鳴り、声が渦になる。
疑いと恐怖が、壁に染みていく。
廊下の奥には《子ども専用ルーム》。
小さなおもちゃの家。積み木の扉。
真翔はそこを見て、時々ひとりで笑う。
「誰とお話ししてるん?」
美月がそう尋ねると、
指を一本、口に当てて。
しー、と。――
この場所は、誰かの箱庭だ。
大人たちを試すための。




