邂逅
最初に目に入ってきた光景は、淀みのない透き通った夜空であった。
大小無数の煌めきがはっきりと見てとれる。形容するなら星々の大海。こんな綺麗な空を見たのは生まれて初めてだと思う。
まるでドーム型のプラネタリウムのような光景だ。吸い込まれるように空を見上げていたが、頭や背中に違和感を覚えたところでようやく自分の置かれている状況を認識した。
俺は・・・倒れている?
そう、仰向けに、それも大の字になって地面に寝っ転がっている状態だ。
俺はその状態のまま辺りを見渡した。
「ここ、どこだよ」
周囲は背の高い木々に囲まれ、草花の生い茂る空間だ。
地面に手をつきながら、俺はゆっくりと身を起こす。
なぜ、こんなところに倒れている。
身体中が重い。何時からここにいる。
俺は今までなにをしていた。
いや、それよりもだ。
「嘘だろ・・・」
同じ状況に置かれた人間なら万人が万人そう思うに違いない。
今の俺は受け入れがたい事実に直面していて、ひどく困惑するのも無理はないと思う。
それは誰もが持っているもの。
己が己であることの証明するもの。
自分のアイデンティティを構成する要素と言っても過言でないもの。
記憶。
それが頭の中からぽっかりと抜け落ちていた。
「何も思い出せねぇ」
頭を振っても叩いても、漫画ばりに頬をつねってみても、これまで経験したはずの出来事が脳みそから湧いてこない。
落ち着け、俺。
自分にそう言い聞かせて、状況を整理しようとする。
木々、草花、夜空。見たものがなんであるかの判別はできる。物事の認知は問題なくできるようだ。
では俺は何者か。
身に着けているのは紺のブレザーに白いシャツ、そして無駄に赤々しく主張している派手な色のネクタイだった。いかにも学生が着用するような若々しい風体。きっとどこかの学校に通っている身分なのだろうが、残念ながら記憶にない。
ここは、どこなんだ。俺はなぜこんな人気のないところに倒れている。
息が詰まり、思わず頭を抱える。叫び散らしたい衝動が全身を支配する。俺を構成するものが「無」という事実に、俺の心を不安で染め上げていく。
そしてすぐに限界が来た。
俺は衝動を押さえきれずに走り出した。
草原を超え、川を渡り、山の中の小道を駆け抜ける。
いくら進めども人の気配はない。聞こえるのは風が草花をなでる音だけだ。
足が重い。空気が足りない。
俺は足を止めて天を仰いだ。
額から滴り落ちる水滴。その軌跡がやけにリアルに感じとれた。
「これ、現実なのか?」
夢か現か。それすら判然としないこの状況は非現実という言葉がしっくりくる。
いや、いっそ夢であってほしい。
見慣れない形をした草木。色濃い自然を感じる澄んだ空気。現実味はなくとも現実感はある。
頬を薙ぐ夜風。木々のざわめき。どれをとってもリアルで、恐怖や不安といった感情を一層あおってきた。
「――!?」
背後で草の揺れる音が聞こえる。
自分でも驚くほど俊敏に振り返った。
「なっ・・・!?」
そこにはいたのは、あの生き物だった。
この地で初めて出会った森の住人。
白くふわふわとした顔。
長く伸びた耳。
紅くつぶらな瞳。
俺はそっと胸をなでおろす。
そいつは、どこからどう見ても俺の知ってるアイツがいたのだ。
「なんだ、兎か」
兎は小首をかしげながら、その小さな赤眼をパタつかせた。
まったく、驚かすなっての。
ふひぃ。思わず安堵の息が漏れる。身体の力もしぼんで抜けた。
不安に支配される中、この小動物の存在が俺の気持ちを軽くしてくれた。
「おー、よしよし。こっち来るか」
兎は臆病な動物だ。身体は小さくても発達した脚力は目を見張るものがあり、外敵を見つけるとすぐに距離をとってしまう。
逃げ出してしまうかと思ったが、兎は草むらから這い出しこちらによってきた。ふわふわとした毛。丸っこい体。ああ、なんて可愛らしいシルエット・・・。
「ってなんじゃこいつはぁぁぁぁぁぁあ!!」
きっと、同じ境遇の人間はおんなじ反応をしたと思う。
それくらい、強烈で衝撃的な光景だった。
小さくて可愛い兎さん。ヤツはそんな形容から最もほど遠い。
後ろの二足で立ち上がった背丈は人のそれと同じほど。筋骨隆々とした体躯。ぶっとい首筋にちょこんと乗っかる兎の頭。その顔は気持ち悪いくらい愛くるしい面構えだ。
極めつけはその肉体だ。最早、顔だけ兎で、身体はボディービルダーそのものと言っていい。白く艷やかな毛並みを纏うこの兎は逞しい筋肉を惜しげもなく晒し、俺の目の前でポージングを決めている。
旧式型ターミネーターもビックリの完成しつくされた肉体美。コイツ、自分の筋肉を魅せる技術を知ってやがる・・・!!
「訳が・・・分からん」
これは夢だ。こんなファッキンいかれた生き物が現実にいるわけがない。
奇妙奇天烈な光景を前に俺は考えることを放棄した。
目が覚めれば日常という安定と退屈が支配する日々なのだろう。眠い眼を擦りながら家を出て、欠伸混じりに歩きながら学校にでも通う俺。授業はテキトーに流し、昼休みは級友どもとバカをやって時間を潰すが、しかし放課後は可愛い彼女と仲睦まじくキャッキャウフフなスクールライフが待っているはずだ。
そう考えると俺の人生はそう悪くはない、いやむしろ素晴らしいものなのではないか。少なくともこんなイカれた世界に俺の心の安寧はない。
ああ、俺の人生最高!現実サイコー!
「ジュル」
じゅる?
「ジュルル」
俺は見た。
兎の口元から溢れんばかりの液体を。
え、ちょ。なんすかその水。口からめっちゃダラダラと溢れてるんですけど。
「ウガァァァァァァア!!!!」
「ひぎゃぁぁぁぁぁあ!!??」
ヤツはおよそ兎とは思えないぐらい口を大にしながら飛びかかってきた。
口から覗く真っ白に光る歯に鋭くとがった牙。
喰われる。
本能的に回れ右をして一目散に逃げ出す俺。ドスンドスンと地面を踏み鳴らしながら追ってくる兎。
後ろを振り向く余裕すらない。つーかあの顔見たくない。俺はありったけの力を振り絞って林道を駆け抜ける。
「ウガッ、ウガァ!」
ひぃぃぃっ、ついて来てる!
筋肉兎は見た目に削ぐわぬ俊足の持ち主だった。全力で逃げてもすぐに追い付かれ、俺を掴まえようと発達した両の腕を駆使してタックルをかましてきた。
「ガァァァア」
危険を察知し横に飛び退くとヤツは悔しげに声を上げる。俺は再度駆け出し逃げ惑う。まさに脱兎が如く。どっちが兎だか分かったもんじゃない。
視界の外に出たとしても、ヤツは俺を見逃さずに追ってくる。鼻もいいんだろう。
逃げる、隠れる。追う、探す。そんなやり取りのエンドレスループ。辛くもヤツの魔の手を躱すことに成功しているが、未だ巻くことはできていない。
速い。デカい。しつこい。おまけにその愛らしい面構え。お前怖すぎるわ!
生い茂る草むらをかき分け、木々の合間を抜け、崖を飛び越えてもヤツは諦めることなくどこまでも俺を追ってくる。息苦しい。夢のはずなのに酸素が足りない。
この悪夢、頼むから早く覚めてくれ!!
「――ッ!?」
俺の身体が突如宙を浮き、そのまま地面に突っ伏した。
背中から感じる重みと生暖かさ。
兎に捕まった瞬間だった。
後頭部に荒い息遣いを感じる。振り向けば邪悪な笑みを浮かべた兎の面。めっちゃ獣臭い。
「お、お前兎だろ。俺、ニンジンじゃないから。筋張ってるし食っても旨くないから」
キシャァァァァァァァツ!!
「ギャアァァァァァァァッ!!」
俺、喰われる!相手、兎!死ぬ、ヤダ!
人を喰うことに喜びを感じているのか、兎は興奮しその顔は上気している。
もうダメだ。見知らぬ場所でUMAに襲われて幕が下りる俺の人生。
理不尽すぎる。
神とやらが実在するならあの世で直に抗議してやる。覚えていやがれ。何年かかろうと絶対にその面に腐った卵を投げつけてやるからな!
「キュ、キュイィィィン!!」
死を覚悟した俺の背後で、突然甲高い音が響いた。
それが兎の悲鳴であることに気づいたのは、覆いかぶさっていたヤツが飛び去って森の中で消え去っていく様を見送った後だった。
兎の筋骨隆々としたその背には、赤々と燃える炎が立ち上っていた。
「な、なんなんだよ一体」
「貴方、大丈夫?」
呆然とする俺の耳朶を心地のよいソプラノが打った。
痛む身体を無理やりに動かし、声の方へと起き上がった。
まるで降臨した女神を見ている気分だった。
月明かりを背に輝くブロンドの髪。胸元を覆う白銀の鎧。背丈をも超える大槍を握る彼女は戦乙女と見紛うほどの神秘的な様相を呈していた。
「危ないところだったわね。立てる?」
「あ、ああ」
差し出される手を躊躇いがちにとった。しなやかだが力強い。彼女は俺を容易く引き上げた。
面と向かった彼女は、凛々しさの中にどこかあどけなさを残した少女だった。歳の位は俺と同じくらいか。
「ありがとう。助かった」
「危なかったわね。ウサミールは見た目のとおり全身の筋力が発達しているの。あの逞しい両手で抱き止められたら最後、巣穴に連れ込まれてどんな目に遭っていたか」
「・・・殺されなくてよかったよ」
身の危険を改めて悟り、火照った身体が急速に冷めていくのを感じた。
しかし目の前の女は形の良いアーモンドアイきょとんとさせながら、俺を見やっている。
「もしかして知らない?」
え、何を。
「ウサミールは草食だから殺されることはないわよ。ただ人間の男が大好きで、捕まえた男をあれやこれや愛でて飽きるまで巣穴で囲われるけど。一度捕まったら一ヶ月は巣穴から出てこられないわ」
「余計タチが悪いわ!貞操の危機じゃねえか!」
ウサミールの濃ゆい映像がフラッシュバックする。ガチムチな身体に熱い吐息。想像するだけで胸焼けがひどい。なんの草を喰えばあんなマッチョになるのだろうか。
死の恐怖より解放されたのと、そして命よりも大事な尊厳を失うおそれがあったことを知るや、どっと疲れが押し寄せてくる。掘られなくてよかった。マジで。
「それで、君はこんな夜更けに森でなにをやってたのかしら?」
ケツの穴に力を込める俺に、女が訊ねた。
「君、珍しい格好をしてるけど、一体どこから来たの?」
「いやそれが・・・」
そこまで言って返答に窮してしまう。
記憶がない。初対面の人間がいきなりそんなことを言い出したら不審がられるのは明らかだ。
そもそもの問題は、ここでの出来事は、俺の持ちうる常識が通用しないということだ。
異形の魔物が闊歩する森。月光を浴びて煌めく銀鎧に背丈ほどもある斧槍ーー確かハルバードとかいうやつだーーを振るう戦乙女さながらの少女。
俺の中の記憶の残滓が、ここが生まれ故郷ではないことを強く主張していた。
馬鹿正直に答えず、様子見するのが得策だろう。
「逆に訊くけど、ここは一体どこなんだ」
ボロを出すぬよう、俺は強引に話を転換した。
女は怪訝そうに眉をしかめたが、それもほんの一瞬で俺の疑問に答えてくれた。
「ここはファラムの首都リンゼルに隣接する始祖の森よ」
聞いたこともない地名だ。やはりここは日本ではないということか。
そして別の疑問も生まれる。
この少女とはコミュニケーションが取れている。
つまりは日本語が通じるのだ。
未知の世界でありながら既知の言語が通じる。とてつもない違和感。
まるでゲームの中の世界に飛び込んだ気分だ。
誰かが俺を謀っているのか。どこかでドッキリの看板を持ったテレビスタッフが機を伺っているのではとも思ってしまう。
だが、あのウサミールの雄々しさ、この少女が発していた殺気は強いリアリティがあった。やらせと断言するにはあまりにも出来すぎている。あまりに現実離れしていてもだ。
俺の記憶が失われている原因も不明なまま。今はまず自分の置かれている状況を把握したい。
俺は話を続けることにした。
「夜の森は魔物も出るし、盗賊も徘徊している。そんな軽装で街の外に出るなんて、貴方正気なの?」
「いや、気がついたらここにいたって言うか・・・」
「はぁ?」
と、女は大きな目を細めてから、俺のことを睨め回した。
「見ない格好だけど、もしかして難民?」
難民だって?
ここは争いがある土地なのだろうか。
「どうなの?」
「・・・」
俺は返答に窮した。
答えはノーだ。
だが素直にそう答えてよいものか。
否定をしても更なる追及が待っているし、流れに身を任せて肯定した場合にどんな結末が待ち受けているのか不明だ。
内戦、他国の介入、祖国の消滅。己が望まぬ理由で故郷を追われた人々は身を寄せた地でも迫害に合う。
争いはその地の住民の安寧と故郷を奪う。ソマリア、アフガニスタン、イラク、シリア。例をあげればきりがない。
別の地域に居を構えても、謂れのない迫害や誹謗中傷を受けるケースもある。社会に溶け込めず非行にはしる者がいれば、糾弾の矛先はすべての難民に波及する。こうして難民は段々と、そして確実に社会から拒絶されていくのだ。
この地の文化レベルは現時点で不明だ。馬鹿正直に問答していては、最悪、この場で斬って捨てられるかもしれない。
女の問い掛けの意図が読めない以上、迂闊に口を開くことはできなかった。
「やっぱり、そうなのね」
彼女は無言を肯定と受け取ったようだった。強張った表情も幾分か和らげる。
どうやら命を取られることはなさそうだ。
「鉄の国アイゼルが近隣諸国に侵攻を初めてから多くの人々が故郷を追われている。貴方はどこから逃げてきたの。水の国エールトリア?それとも高原の国ハイランディ?」
「ええと・・・もっと遠いところからかな」
頬をかきながら、そんな曖昧な返事で話を合わせた。
彼女は顎に手を当てて、考えるそぶりを見せる。
「と言うことはグレネルンか。なるほど。確かにあそこはあまり知られていない異国の文化があると聞くわ。君の格好にも納得が行く」
「・・・察してくれて助かるよ」
俺を一瞥して頷く彼女に対して、正否どっちともとれるような返事だけ返しておいた。
「なあ、こっちも一つ聞いていいか」
「何かしら」
「日本って地名に聞き覚えはないか」
「・・・ニホン?」
彼女は形の良い眉根を中央に寄せてから、首を横に振った。
「聞いたことないわね。そこに用があるの」
「まあ・・・家族や友人がいるはずだから」
「ふーん」
この娘が俺を謀っているという可能性すら除けば、ここが俺の知る日本ではないことは確定的だ。
いや、もしかすると地球ですらなく、別の世界なのかもしれない。
何かの拍子に異世界にでも迷い込んだか?馬鹿馬鹿しい。そんなことあり得ないだろ。転生ものじゃああるまいし。
突拍子もない想像を切って捨てようとしても、常識では説明のつかない魔物や事象を目の当たりにしているのは事実だ。
情報がほしい。少なくとも身の振り方を決められるだけのものが。
「事情は分かったわ。とりあえず、街に行きましょう。ついてきて」
と言って彼女は歩きだす。
「え、あの・・・」
彼女の背を見やりながら俺は逡巡する。
ここにとどまるのは危険だ。
一応、命の危険まではないとはいえ、あの化け物うさぎに囲われるのは御免被りたい。
それでも、こんな見ず知らずの土地で、初めて出会った人物を簡単に信用してしまってよいものか。ケツを捧げるほうがまだマシで、ついていったが最後、黒服の集団に囲まれゲームオーバーなんて面白みのない結末だけはなんとしても避けたいところだが・・・。
ついていく/ついていかないの二択ではなくて、実は三つ目の選択肢が隠れていやしないだろうね。
「こんなところにいたらまた魔物に襲われる。それに、指名手配中の犯罪者が彷徨っているとの話もあるわ。自殺願望がなければすぐにここを離れましょう」
どうやら、一つ目の選択肢しか選べなさそうだ。
俺は腹を括ることにした。
「・・・お供させていただきます。ええと」
言い淀むこちらの訳を彼女は察してくれた。
「私はアイリス・クレイン。リンゼルで傭兵をやってるわ。君、名前は?」
そう言われて思わず瞬きを繰り返した。
そうだ。
俺が俺であるための証明。己のアイデンティティを構成する重要な要素だ。
何故そこに思いが至らなかったのか。
俺の名前。それは。
「獅子堂・・・獅子堂由良だ」
数奇な運命か、はたまた神のいたずらか。
俺とアイリスの人生はこの地で交わり、そして物語が動き出した――
初投稿です。
書籍の小説で言うと第一巻くらいの構想まではできているのですが、のんびりと更新していきたいと思います。
お付き合いいただける方、どうぞよろしくお願いいたします。