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ビデオテープ

作者: 葉月 雨緒

 庭の紫陽花が初夏の日差しに映える土曜日の朝、木下美穂は、自宅から車で二〇分の隣町にある実家を訪ねた。

 美穂は、ここ数年独り暮らしの父の世話をするため、毎週土曜日に実家に通っていた。

 父の幸太郎は今年七五歳になる。一〇年前に母が亡くなり、暫くは身の回りのことすべて自分でこなしていたが、三年前に軽い狭心症で入院して以来、家事が億劫になったのか、あるいは美穂が面倒を見過ぎたためか、掃除、洗濯、買い物一切を放棄してしまった。

 以来、幸太郎は家事を娘に任せ、早朝から体力維持のための散歩に勤しみ、昼は趣味の読書と映画鑑賞に費やし、夕方にはありあわせの食材を肴に缶ビール一杯だけの晩酌を頂く日々を送っていた。

 独りきりの生活を案じた美穂と夫の裕司は、何度か自分たちと一緒に住むよう提案したが、その度幸太郎は、足腰が立たなくなったら世話になると言って応じなかった。

 幸太郎の性格を知る美穂は、いよいよとなったら首に縄を掛けてでも引き取ればいいと割り切り、父の自由に任せることにした。

 前日の夜、何か欲しいものがないか電話したときには、普段と変わらぬ父の声が特にないと答えた。美穂は、買い込んだ一週間分の食材と、先週預かってきた洗濯物を後部座席に乗せ出発した。

 実家に到着して、普段通りに軒先の僅かな隙間に車を滑り込ませ、荷物片手に玄関を開けようとしたが、扉には珍しく鍵が掛かっていた。散歩かと思い合い鍵を取り出したとき、玄関横の郵便受けに新聞が残ったままなのを見つけ、嫌な予感が頭をよぎった。

 それを振り払って、鍵を開けて中に入り、框に足を乗せる前に父を呼んでみたが、返事はなかった。美穂はもう一度奥に向かって声を掛けながら家に上がり、狭い廊下の右に面した食堂兼居間と、反対側の寝室に使っている和室を覗いたが、どこにも父の姿はなかった。

 美穂は、少し声を荒げて父を呼びながら小走りに奥に進み、突き当りに向かい合う風呂場と便所を覗いたがそこにも姿はない。

 便所の手前には、二階に続く階段がある。階段は六段登ったところが踊り場で、そこで折り返して便所の上を通って二階に繋がっている。二階の二つの部屋は、かつて自分と三歳下の弟がそれぞれ使っていたもので、今はどちらも物置状態のはずだった。

 まさかと思いながらも、他に心当たりがない美穂は二階を目指して踏み出した。

 階段を上がると、右手に短い廊下を挟んで部屋が向かい合っている。手前が、自分が使っていた洋間で、試しに中を覗くと、やはり室内には古い電化製品と段ボール箱が山積みになり、窓にはカーテンが引かれていた。

 振り返って、今度は弟の部屋だった奥の和室の襖に手を掛けたとき、中から小さく音が聞えるのに気づいた。昔の、放送終了後のテレビから流れるノイズに似ていた。美穂は、嫌な予感をこらえながら、細く襖を開けて「お父さん・・・」と、声をかけた。

 開けた襖の奥から、今度ははっきりとノイズが聞こえた。小さいが決して耳障りのいい音ではない。ちょうど肩甲骨の間を乾いたタオルで逆撫でされるような感覚に鳥肌が立った。部屋は二方に窓があり、本来は非常に日あたりがいいはずだが、どちらも障子が閉まっていて、ほんのりと白い幕のような陰に包まれている。窓と窓に挟まれて、そこだけ陰が濃くなった隅に、古い二四インチのブラウン管テレビが、灰色の光線を放っていた。

 テレビの正面には、大きめの座椅子が据えられ、背凭れ越しに、そこに誰かが納まるのが見て取れた。

 美穂は、その光景が意味するところを察し「お父さん!」と叫びながら部屋に飛び込み、座椅子に凭れる父の姿を確かめた。老人は、ほんの少し大股に投げ出した両脚の間に腕を垂らして項垂れていた。眠っているようにも見えたが、美穂は父がすでに息を引取っていることを疑わなかった。


 遠藤幸太郎は、一ヶ月前に七五歳の誕生日を、美穂とその夫の裕司、それと二人の孫娘に祝ってもらっていた。妻の貴子は十年前に六一歳で亡くなっていた。

 第一発見者となった美穂は、幸太郎の長女で四五歳になる。美穂の三歳下に長男の邦彦がいる。邦彦は、東京の大学を卒業してそのまま現地に就職し、家を離れて久しい。邦彦にも妻と小学生の娘がいた。

 その日の夕方、邦彦は妻の由美子と娘の真由子を伴い実家に駆けつけた。母が亡くなってから数えるほどしか戻っていないかつての我が家は、車の窓越しに見上げると随分と小さく煤けて見えた。

 車を降りると、義兄の裕司が玄関先に姿を現し、遠慮がちに右手を上げて出迎えた。

 車外は、初夏の淀んだ熱気が地面にわだかまり、空調に慣れた首筋が薄らと汗ばんだ。久しぶりに会った義兄は、以前に比べて随分と太って、からだを膨張させるために栄養を奪われたのか、やたら寂しくなった頭髪の下に広がる額を脂でてからせ、大儀そうに暑苦しい息を吐いた。

 あとから車を降りた由美子たちも、見違えてしまったその姿に愛想笑いで挨拶し、そそくさと家の中に駆け込んでいった。

 家の中では、遺体を発見してから消防と警察に通報し、検視に立会い、死亡診断書をもらい、親戚中に連絡を入れ、寺と葬祭場に電話をして通夜と葬儀の手配を独りでこなした姉が、疲労と汗と脂にまみれた無残な残骸のように食堂のテーブルにうつ伏して邦彦一家を出迎えた。夫の裕司はそういった采配を振るうには不向きな性格らしく、すべてを妻に一任して右往左往していたのだろう。その光景は、夕刻のどこか刺々しい姉弟の再会を前に、居心地悪そうに愛想笑いを浮かべて様子を窺う裕司の姿から容易に想像できた。裕司は、額の汗をしきりに拭いながら、まずは仏様に挨拶をと言って、一家を和室に案内した。

 何かと理由をつけて寄り付かなかったので、母の七回忌に戻って以来、二年半ぶりの再会だった。

 外はまだ日が残っているが部屋には蛍光灯が灯され、そのせいか、きれいに身繕いされた父の顔は、どう見ても蠟で拵えた作り物のようで、よく「眠っているようだ」などと修飾する言葉は嘘でも言えないと、邦彦は思った。なのに、隣の妻はぼろぼろと涙を流し、鼻を啜りながら義父の死に顔に長いこと手を合わせていた。

 仏との対面が済むと、娘の真由子は居間で待つ従姉たちのところに飛んでいき、嬉しそうに再会を喜び合った。美穂の娘たちは、長女の明日香が大学に入学したばかりで、次女の早弥香は高校二年生だった。真由子は小学六年生なので、二人にしてみれば妹分と言うよりペットに近い存在だろう。そんな自分の役割を承知して、真由子は二人の間に座り、両方から伸びてくる腕に弄ばれながらきゃっきゃと笑い声を上げている。

 邦彦は、そんな娘たちを横目に食堂のテーブルに戻り、姉の向かい側に腰を下ろして半日の奮闘を労った。姉は上体を起こし、不機嫌にどういたしましてと頭を下げ、喪主はあんただからねと言い捨てた。

 邦彦は由美子を隣に座らせて、一日の経緯を訊ねた。美穂が、面倒くさそうに朝の訪問から二階での遺体発見までを喋ると、邦彦はまるで他人事のように「どうしてそこの部屋じゃなかったのかね」と言った。

「知らん」と言ってから、美穂は発見以降の自分の奮闘振りについて詳細に語りだした。昔から頭の回転が速く段取りが上手な姉の手腕は、この一件でも遺憾なく発揮されたわけで、賞賛に値するが、それを自慢げに吹聴するあたりが子どもの頃から少しも変わらず、またそのことを大袈裟に褒めないと臍を曲げることも昔のままなのだろうと心得て、邦彦は心の底から感謝する顔で礼を述べた。

 何時の間にかすっかり日が暮れていたので、もうこんな時間かと言って姉は立ち上がり、夕食はどうすると訊ねた。これから父の死を聞きつけた弔問客が訪ねてくるだろうから、何か出前でもとればと邦彦が応えると、居間で娘たちが「ピザがいい」と騒ぎ立てた。

 それでいいかと訊ねる美穂に邦彦が同意すると、美穂は明日香を呼んで、宅配ピザに電話して適当に注文するよう言いつけ、自分は台所に入って洗い物を始めた。それを見て慌てた由美子が手伝いに台所に立ったので、邦彦は独り取り残される形になり、手持ち無沙汰に家の中を眺め回した。

 子どもの頃はそれほど狭いと思わなかったが、改めて眺めると、居間に娘たちが騒いでいるのも手伝って、やたら狭苦しく感じる。食堂と居間は一続きで、せいぜい一〇畳程の広さだろうか、そこに古ぼけたソファと、壁には最新型の四〇インチ液晶テレビが据えられている。以前は無駄に幅を取るブラウン管式のテレビが置かれて、よく姉とチャンネルを取り合って喧嘩したものだった。姉は、父を発見したのは二階の和室のテレビの前だったと言ったが、それが、以前ここにあったテレビなのだろうと思った。

 新型購入のときに電気屋に引取ってもらえばよかったのにと思いながら、父は新し物好きなくせに、なかなか古いものを捨てない性分で、お陰で家の中が電化製品であふれかえっていたことを思い出した。

 ふと、なぜテレビの前だったのかと思った。テレビの前で息を引き取ったことはそれほど不思議ではないが、旧型のブラウン管テレビが今の放送を受信できるのか。姉は父がテレビの前で死んでいたと言ったが、そこでいったい何を観ていたのか。今更それを訊ねるのも気が引けるし、気のせいか、姉がその辺りの説明を避けたようにも思えた。

 気になるとじっとしていられず、邦彦はまず台所を窺ったが、姉と妻は楽しそうに話しながら洗い物を続けている。振り返ると娘たちは、いつの間にか各々ゲーム機を手にして対戦型ゲームに没頭している。邦彦は立ち上がり何食わぬ顔で廊下に出て、息を殺して階段に向かった。

 暗い階段を上がっていくと、明り取りの窓から磨ガラス越しに夜の気配が忍び寄り、廊下の奥をぼんやりと浮き上がらせている。邦彦は短い廊下に立って左手の襖をそっと開けて中を覗きこんだ。

 部屋の二方に窓があり、閉まった障子が町の灯りに照らされて仄かに輝いている。その明るさに部屋全体の輪郭が水底のように静かに浮きあがっていた。

 自分が生活していたころの面影はまるでない。机も、本棚も衣装箪笥もどこかに片付けられ、あるのは窓と窓の間の暗闇に紛れてじっと佇む黒い塊、その輪郭だけが僅かな灯りを捕らえてチョークで描いた線描のように四角い形をなぞっている。

 手探りで壁のスイッチを探して灯りを点けると、闇は瞬時に後退って、奥行きのない殺風景な部屋が現れた。

 襖の隙間に滑り込むように部屋に入ると、後ろ手でそっと襖を閉めた。ここまでこそこそする必要があるのかと思いながら、部屋の中央に進み周囲を見回した。何もない。あるのはテレビと、横に追いやられた小さな丸い座卓と、窓際に置かれた座椅子だけ。父はそれに座ったまま息を引取ったに違いない。

 置かれているのは、やはり以前居間にあったブラウン管式のテレビだった。当時は最新型だった二四インチの黒い躯体の両脇には、これ見よがしにスピーカーが張り出している。

 画面右下のボタンを押すと、ブンと低い音を立てて電源が入り、画面が白く輝いた。すぐにスピーカーから思いの外大きなノイズが追いかけてきたので、慌てて音量を絞った。そのまま画面を見詰めていたが、気がついて座卓の上のリモコンを手にして入力切替のボタンを押した。画面は切り替わったが、テレビ放送が映る気配はない。そうだろうと妙に納得して腰を下ろすと、今度はテレビ台の扉を開けてみた。そこには古めかしいビデオデッキがあった。中央にテープを差し込む挿入口があり、その下に音量レベルのゲージと再生時間を表示するパネルが並び、右には再生と停止、早送りと巻き戻し、取り出しのボタン、左には電源ボタンと外部入力用の端子穴が並んでいる。

 試しに取り出しボタンを押してみると、平べったい箱は、中でぎこちない音を立てて動き出し、挿入口の蓋が奥に持ち上がると奥からビデオテープが押し出された。

 テープの背にタイトルラベルは貼られているが、何も書かれていない。それを摘まんでデッキから引き出して見ると、テープは左のリールに巻き取られている。どうやら最後まで回りきって電源が切れたらしい。姉が発見したときテレビに砂嵐が舞っていたのは、デッキからの入力信号が途切れたからだろう。

 いったい何を観ていたんだ。

 邦彦は、もう一度テープを挿入口に差込みその背中を指で押してみた。すぐに機械はこちらの意思を汲んでテープを飲み込み、ガチャガチャと音を立てて再生の準備を整えた。

 巻き戻しボタンを押して、三分の一ほど戻ったあたりで一度再生してみた。画面は一瞬歪んだように波打ったが、青一色に染まり何も映さない。録画されているのはもっと先らしい。一二〇分テープだから一時間ドラマでも入っているのか、と思いながら今度は最初まで巻き戻して再生ボタンを押し、画面を見詰めた。

 画面は青いスクリーンに切り替わり、すぐに黒くなった。そして、また明るくなる。

 映し出された画面を見詰めていた邦彦は、始めやや顔をしかめて画面を眺めていたが、やがて目を見張った。


 翌日、遺体は葬儀場に移され、通夜に先立ち納棺の儀式がおこなわれた。

 集まったのは、美穂と邦彦の家族と、これに間に合うよう駆けつけた数人の親族で、総勢一五人に満たない数だった。

 死装束を調え遺体を棺に納め、副葬品を供える段になって、邦彦は何時の間にか手にしていた紙袋を差出してこれも入れると言った。

 中にはビデオテープが入っていた。

 美穂は、プラスティック製品は駄目なんじゃないと邦彦に言ったが、邦彦は一つくらい大丈夫だろうと言って譲らなかった。

 やり取りを横で見ていた裕司が、葬儀場の職員に訊ねると、そのくらいなら燃えてなくなるし、燃え残ったネジなどは火葬場の職員が撤去するから心配ないと答えた。

「大丈夫だよ」

 そう言いながら、裕司が邦彦に訊ねた。

「お義父さんの好きな映画か何か」

「まあそんなもんです」

 邦彦は適当に答えて、テープを横たわる父の左の腋の下に押し込んだ。

 それを見ていた美穂は、隣の由美子に、

「好きな映画なら胸に抱かせてあげればいいじゃないね」

 と言い、由美子は曖昧に相槌を打った。

 蓋が閉められると、棺は祭壇の前に運ばれ通夜の準備が整った。

 通夜の客は、幸太郎の古い友人や近所の住人が多く、式場を半分ほど埋めた。

 焼香は早々に終り、僧侶も読経をさっさと切り上げ、喪主である邦彦がマニュアル通りに会葬の礼を述べると、儀式は呆気なく終わった。通夜振舞いの客も、最前の親戚にあと数名増えただけで、一時間もしないで切り上げられ、では明日もよろしくお願いしますと、事務手的な挨拶を交わして解散となった。

「じゃあ今日は帰って早めに寝るか」

 そう言う邦彦に、由美子が訊ねた。

「お通夜って、誰か仏様の傍にいなきゃいけないんじゃない」

「今は、どっちでもいいらしいよ。泊まりたければ泊まってくださいだってさ。」

 と、鼻で笑いながら邦彦は答えた。

「俺はこんなところ泊まりたくないしさ。ママだって嫌だろう」

 答えに詰まる由美子に、邦彦が畳みかけた。

「それに、ここには出るって噂なんだよね」

「うそ」

「本当だよ。ここ、俺が小学校のころにできたんだけどさ、その時から噂があったんだ。夜中に子どもの遊ぶ声が聞こえるとか、お婆さんの泣き声が聞こえるとか」

「馬鹿じゃないの、そんな子どもの噂まだ信じてるの」

 隣で、美穂が呆れたように呟いた。

「いいじゃない。お化けは永遠のロマンだよ。俺が今夜泊まるかは別問題として」

「そんなこと言って本当は怖いんでしょ」

「まあね」

 平然と答えて、邦彦は由美子に言った。

「明日朝早く来て線香あげればいいだろ」

 邦彦は、再び美穂に向き直りそれでいいだろうと同意を求めた。美穂は、何か言いたそうな素振りを見せたが、思い直して構わないと答え、自分たちも家に帰って明日、直接ここに来ると言った。

「それじゃ、戸締りお願いね。お父さん、そっちに帰るかもしれないけど」

「うん、その時は一緒に一杯やるよ」

 邦彦は、顔を顰める由美子と真由子を促し、父のいない実家に帰っていった。


 葬儀の日は、朝から晴天だった。

 真夏を思わせる日差しの下、邦彦たちは前日からは想像できないくらい多くの弔問客の対応に追われた。

 建物の中は空調が効いていて快適だったが、それでも裕司は、額に浮かぶ大粒の汗を拭いながら、時折大きな息を吐いた。

 それを横目に、邦彦は隣の美穂に囁いた。

「親父ってさ、意外に人気者だったわけ」

「あたしもちょっと驚いた。こんなに来ると思わなかったから、お返し足りないかも」

「そっちは、どうにかなるでしょ」

「まあね。それよりあんたさ、昨日のことなんだけど」

「なに」と邦彦が訊き返したとき、葬儀場の職員が近づいてきて美穂を呼んだ。

「そら来ちゃった。やっぱり足りないんだ。ちょっと行ってくるわ」

 そう言い残して、美穂は職員を追って事務室へ消えて行った。

 席を追加しながら弔問客を何とか会場に押し込み、葬儀は定刻に開始となった。

 始まれば、後は段取り通り粛々と進み、一時間後には予定通り喪主の挨拶に漕ぎつけた。

 お返しはもとより会葬御礼の葉書も急遽増刷し、何とか間に合わせることができた美穂は、その時点で精魂尽き果てた様子だった。

 相変わらず裕司は役に立たなかったらしく、火葬場に向かう車の中で、美穂は延々と夫に悪態をついた。

 邦彦は、由美子に無視しろと囁いた。

 周辺自治体が共同運営する火葬場は、広大な水田を見下ろす小高い山の中腹にあった。火葬場までの移動は四〇分ほど要したため、さすがの美穂も黙り込み、窓外の青々と色づく景色を眺めていた。

 前回、ここに来たのは母の火葬のときだった。一〇年前のその日は、晩秋の曇り空で、今にも降り出しそうな厚い雲が垂れこめていた。稲刈り後の田んぼが黒々と広がり、車内を殊更に消沈させるよう仕向けるようだった。

 あの時の陰惨な空気に比べ、今日は嘘のように晴れやかだった。父の享年のせいもあるのだろう。六一歳の母の死に比べれば、七五まで生きたのだから諦めもつく。

「そうだよな」

 そう呟く邦彦の眼に、斜面を覆う造成林の間に突き出す煙突が小さく映っていた。


 遺体と遺族を乗せた車を追って、親戚を乗せたマイクロバスと、僧侶が自ら運転するハイブリット車が火葬場の建物前に横づけになり、総勢二〇人ほどが降り立った。

 建物の正面は殺風景なガラス張りで、車寄せの深い庇が張り出しているため、外の明るさが届かずガラスの向こうが透けて見えた。正面に向かい、扉が三つ等間隔で並んでいる。室内は飾り気がない薄茶色のタイル張りで、ステンレス扉の冷たさが強調されている。右端の扉の前に仮設の祭壇が置かれ、そこに故人の遺影と位牌、花が置かれ、香炉から幽かに煙が立ち上るのが見えた。邦彦は、父はその隣の炉に入るのだろうと思った。

 扉が開いて、制服制帽姿の職員がストレッチャーを運び、霊柩車から棺を乗せ換えた。棺は、中に入ると一旦左側の壁際に運ばれ、その前に香炉を乗せたた台が置かれた。邦彦と美穂が、それぞれ胸に抱いていた遺影と位牌をそこに据え、仮設の祭壇が出来上がった。僧侶が一礼してその前に立つと読経が始まり、参列者たちが順に焼香を始めた。

 全員の焼香が終わると、職員が祭壇を脇に避け、棺を中央の扉の前に移動させた。

 壁の赤いボタンを押すと、ステンレスの扉が中央から上下に開き、大きなレールを頂く台が据えられた炉の中が窺えた。職員は、無言でストレッチャーを進め台に寄せて固定すると、棺が載る天板に手を掛けて押し出した。棺はレールを軋ませて炉の中に滑り込んだ。扉前が片付き、再び壁のボタンが押されると、モーターの唸りと共に扉がゆっくり閉まった。邦彦の隣で由美子が鼻を啜った。

 祭壇が扉の前に据えられ、気難しく唇を引き結んだ父の遺影が参列者に対峙した。出来上がった遺影を見たとき、邦彦は「笑った写真なかったのかよ」と訊ねた。美穂は、自分で探しもしないでよく言うと腹を立てたが、記憶の中の父の笑顔は、目の前の不機嫌そうな顔に比べてはるかに少ない。実際の記憶がそうなのだから、写真に残るものを探すのは確かに難しいかもしれないと思った。

 その顔を眺めるうちに、邦彦の脳裏に幼いころの記憶の欠片が、出鱈目な編集動画のように次々と浮かんでは消えて行った。記憶にある父の姿はなぜか幼いころのものが多く、父は若くその傍らに母の姿もあった。

 邦彦は、父に手を引かれて歩いた夜のことをぼんやり思い出した。それは、夏の夜祭か花火見物の帰りだったと思う。珍しく父は機嫌がよく、隣の母と言葉を交わしていた。話の中身は覚えていない。両親を挟んで向こう側に姉がいたのかも覚えてないが、幸せな空気に包まれていたことだけははっきりと心に残っている。湿った空気や、頭の上から降ってくる自分たちの足音や、遠くを走る車の気配、見上げた夜空に散らばる星、頬にかかる風に草の臭いが混じっていたと思った刹那、涙が頬を伝って落ちた。

 邦彦は、慌てて手の甲で涙を拭い、隣の由美子を盗み見た。幸い由美子は邦彦以上に泣きじゃくっており、夫の涙に気づかなかった。

 壁のボタンに手を掛けた職員が、芝居がかった口振りで「合唱をお願いします」と言ってバーナーのスイッチを入れた。

 扉の向こうに炎が上がる音が聞こえ、邦彦の背中で嗚咽が零れた。

 職員が邦彦に歩み寄り、耳元で収骨には一時間半ほどかかると告げた。邦彦が、由美子の向こう側の美穂に同じことを告げると、美穂は裕司に何やら耳打ちした。

 裕司が親族に振り返り、火葬が済むまで別棟の休憩所で待つよう声をかけて、先頭に立って歩き出した。一団が動き始めると、由美子が邦彦を窺ったが、邦彦は一緒に行くよう促し、美穂と二人その場に留まった。

 二人だけになると美穂は、あんたでも泣くのねと憎まれ口を聞いた。親の死に目に会うのは二回だけだから仕方ないだろうと、邦彦は反論した。

「さて、ここでやっと半分かしらね」

 と美穂がため息交じりに呟く。

「もうすぐゴールだろ」

「馬鹿言わないでよ、これから初七日の法要もあるし、精進落としもあるし、あの家のことだって相談しなきゃならないでしょ」

「それは任せるよ」

「何言ってるのよ、あんた長男でしょ。責任もって処分してよね」

 邦彦は、面倒くさそうに天井を見上げた。

「いったん戻って、今度の休みにまた来るよ」

「分かった」

 そう言って、美穂は正面のステンレス扉を見詰めていたが、やがてポツリと訊ねた。


「あんた、あのビデオ見たのね」

「ああ」

 あっさりと邦彦は答えた。

「驚いた」

 美穂は、邦彦に向き直った。

「あたしなんか悲鳴上げちゃったわ」

 邦彦は苦笑した。

「親父もよくやるよな。それより、おふくろがよく承知したよな」

「ほんと」

「画面が荒れててよく分からなかったけど、いつ頃の録画なんだろ。二人とも若いよな」

「ⅤHSだからね。四〇年くらい前かしらね」

「姉ちゃんが幼稚園のころか」

「分かんないわよ。もっと古いかもしれない」

「そのころなら有りか、あれも」

「そお?あたしは分かんない」

「裕司さんに誘われたりしなかった」

「ないわよ。誘われても絶対断ってたし」

「ほんとかよ。結婚前だったら案外喜んでやったんじゃない」

「あんたと一緒にしないでよ」

「あれ、毎晩観てたのかな」

「まさか」

「まあ、おふくろが生きてた頃は観ないか。やっぱり死んでからだよな」

「一〇年前からずっと観てたってこと」

「だって、画面なんかパッと見ただけじゃ何が映ってるのか分かんないもん。学生の頃、ダビング重ねた裏ビデオ借りて観たけど、絵が滲んで、色も飛んじゃってて、目凝らさないとよく見えないだよ。それと同じだった」

「そんなの観てたの」

「男はみんな観てるよ」

「まあ、そうでしょうね」

「だから、親父があれ撮ったって不思議はないか」

「だけど、お母さんとだよ」

「でも、楽しそうだったよ」

「まあ、嫌がってはいない感じだわね」

「むしろ幸せそうに見えた」

「そうかな」

「昔の思い出見返してたなんて、親父も案外ロマンチストだな」

「それだけお母さんが好きだってことだわね」

「羨ましいと思う」

「うん」

「いい夫婦だな」

「うん」

 扉の前で二人は、ビデオテープと父が一緒に灰になり空に登って行く様を思い描いた。

 美穂は、子どものとき邦彦に読んで聞かせた絵本の話ことを口にした。

「『スズの兵隊』の絵本覚えてる。最後に兵隊さんと紙のバレリーナが暖炉に落ちて燃えちゃうやつ」

「うん。残酷な話だよな」

「でも、次の日お手伝いさんが暖炉の中を見たら、ハートの形をしたスズの塊が残ってたでしょ。どうしようね。テープがハートの形に燃え残って、お父さんの灰の中から出て来たら」

「そん時は、形見に持って帰るか」

 そんなやり取りの後、邦彦は美穂を残して休憩室に向かった。


 邦彦が休憩所に姿を現すと、それを認めた由美子が近づき「お義姉さんは」と訊ねた。

「まだ親父の傍にいるよ」

「そう、最後のお別れだもんね。でも随分長かったわね。そんなにお話することあったの」

「まあ、今後の段取り諸々」

「お義兄さんとね、言ってたのよ。あの二人あんなに仲良かったっけって」

 邦彦は、少し微笑んだ。

「こんな時でなきゃ口も利かないかもな」

 そう言って振り返る視線の先に、ガラス壁越しにステンレス扉の前に佇む姉の後ろ姿を見つけて、「本当に」と呟いた。


 やがて、館内に音声が流れ火葬の終了を告げた。一同は連れ立って火葬場に戻り、収骨台を囲んだ。最初に骨を拾うのは邦彦と美穂だった。二人は係員の誘導で、箸を延ばして左の肋骨と思しき骨を摘まみ上げた。

 その時、二人は示し合わせたように骨の下にハート型の樹脂の塊が残っていないことを確認し、互いに目配せして微笑み合った。


 終


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