3 宇宙人と、夏休み
普段の無邪気な笑みは消え、イントネーションはそのままでも丁寧な敬語を使っていた。まるで、営業中のサラリーマンみたいに。
梅雨明け直後の初夏の事。
彼は誰かとスマートフォンで話していたから、こちらに気づく様子もない。今年も毎日暑過ぎる夏になって、あたしは疲れてもいた。
電話してる相手に話しかけるなんて、よっぽどの相手か理由がなければしようとは思わないだろう。用事もないし約束もしてないし、そもそも彼とはもう何ヶ月も会っていなかった。
宇宙人も、電話するんだ。なんて失礼な事を思った。でもあのパッと見が普通の日本人でしかない青年は、あたしと初めて会った時には電車の乗り方も自動改札機の通り方も知らなかったんだから。
成長したんだな、なんて思うのは上から目線すぎるしそっとしておこう。通話し続ける彼の事を、あたしはそのまま見送った。
高校二年になってからのあたしの夏休みは、非常に忙しいものとなった。まだ先と思っていた受験の準備を大量の宿題という形でさせられ、学校での夏期講習にも参加させられ、所属だけしている部活の手伝いを頼まれ(雑用係だ)、なんだかんだと高校に行ってばかりいる。まだ夏休みが始まって二週間もたってないのに予定がない日は僅かだった。
明日は久しぶりに一日何もする事がないので、少しゆっくりできる。家から一歩も出ないでダラダラするのいいかもしれない。
昼過ぎの、日差しが一番眩しい時に帰ろうとした事を後悔するような暑さ。中野駅を出てすぐに頭がクラクラしそうになる。早くバスに乗ってしまわないと、暑さを言い訳にして涼しいコンビニやカフェでムダな買い食いをしてしまいそうだ。日陰を探しながらバス停を目指すと、聞き覚えのある声が遠くからする。
「ちょお待って!」
焦ったような声。まさかとは思うんだけど、あたしは迷った。自分への呼びかけかと思ったら違って恥ずかしいやつめ、みたいなのたまにある。
あるんだけど……。あたしは額の汗を拭いながら少しだけ振り返った。
「雨夜ちゃん」
声の主は距離をつめていて、手をブンブン振りながらあたしのそばまで駆けてくる。この暑い中元気な事だ。
長い息を吐いてキラキラとした眼差しを向けてくるのは、一月くらい前に見かけたっきりの見た目だけならイケメン男子。
「ほんまに久しぶりぃ……!」
モデルとかアイドル事務所にいそうな顔の、二十代くらいの青年。関西のイントネーションの、どっからどう見ても日本人な彼は《スター・トラベラー》という愛称を持つ地球外生命体だ。
去年の冬ぐらいに懐かれて、今年の春あたりからは見かける事も少なくなった相手。
しばらくぶりに見るとこんな顔だったかと疑問になる。なんとなく、彼が大人びた顔つきになったように思える。
「最近ずっと学校忙しくて〜〜雨夜ちゃんと同じ時間に帰れへんかった……めっちゃさびしかった」
片手で自分の涙を拭くフリをして、大げさな感情をアピールしてくる。あたしはこういう大きなリアクションには、あまり応じてやれないタイプの人間なんだけど。
「はあ。お疲れ様です」
「あー! もうなんで日本人すぐ思ってへんオツカレサマゆうん?」
気のない返事をすると、すぐに《スター・トラベラー》に注意されてしまう。
「思ってる思ってる。大変でしたね」
彼の事情はよく知らないけど、梅雨が終わった頃に見かけた彼の姿を思い出す。重要そうな話をしていたから、きっと忙しくしているんだと思っていた。
少し拗ねたみたいにあたしを睨んでいた宇宙人だが、急に顔色を変える。
「せや。ほんでな、雨夜ちゃんうちの大学のオープンキャンパスに来ぉへん?」
「……は?」
「模擬授業やるねん」
「誰が?」
「オレが!」
この目の前の宇宙人が普段何をしているのか思い出すのに、時間が必要だった。そもそも、故郷の星では学者をしていたとか言っていた。それなら学校で授業をするのはおかしくないかもしれない。
この日も夏の太陽が元気に活動する中、あたしはわざわざ中野駅にやって来た。
普段T大学で学生として暮らしている青年は、オープンキャンパスの時に開催する模擬授業を担当する事になった。
元々の学者としての知識もあるし、地球人の教授との差はあまりない。そう判断されて、ひとときだけの教師役を任されたのだそう。
少し迷ったが、あたしは彼の誘いを受ける事にした。オープンキャンパスには一人で行きづらいし、在学生が知り合いなら気になった事も聞きやすい。T大学ではないが、もともとオープンキャンパスに友達を誘って行こうとは思っていた。ただ、彼女たちは進学先があたしよりはっきりしているから、興味ない事に付き合わせるみたいでちょっと誘いづらかったのだ。
待ち合わせ場所は、いつも会うJR中野駅の北口。なんとなく連絡先を聞き忘れたけど、スマートフォンもないのに待ち合わせ時間に彼と会う事ができた。彼とはいつも約束もなく出会えるから、あまり不思議には思えなかった。
「電車こっち」
乗り換えの駅であたしを引率する彼は、初めて会った時に改札の存在すら知らなかった男と同一人物とは思えない。人の波をスイスイと避けて、都会にひどく手慣れている。
相手は地球の外から来たけれど、ちゃんとした大人――っていうのも変だけど――なんだなって思った。
最寄り駅からT大学までの道のりも、もう何千回も繰り返したみたいになめらかに歩く。
《スター・トラベラー》の彼が通う大学は、あたしの通う高校より少し大きいくらいの敷地を持っていた。大学生も夏休み中だからキャンパス内は静かだけれど、何人か学生の姿が見える。
高校と違って校舎は複数あって、形も様々。オープンカフェにありそうなテーブルと椅子があったり、ベンチがあるのがあたしには新鮮だ。
「高校でもオープンキャンパス来たことある」
その時にも似たような光景を見たものの、また別の大学だから興味深い。
暑い中駅からT大学まで少し歩いたのに、彼は疲れも知らないような顔であたしを見た。
「どこ行ったん?」
「C大学。すごく広くて」
春に高校の課外授業でクラスメイトたちとC大学を歩き回ったけど、友達と話しながらだったしあんまり覚えていない。とにかく広くて歩くのが疲れたのは記憶に残ってる。校舎が次々とあらわれて、本当にあんなに建物がたくさん必要なのか分からなくなっていた。
「あ〜聞いたことある」
「ここは迷子にならなそう」
あらかじめ少し調べていたし、ここの大学はC大学ほどの規模ではなさそうだ。
「雨夜ちゃん迷子とかならへんイメージなんやけどな〜」
「どんなイメージ」
方向音痴と思われるよりはいいのかもしれないけど。なんとなく笑ってしまう。
「あ、でもここで迷子になってもオレが絶対迎え行くから安心してな! 集合場所決めとこ」
「いや今はスマホあるやろ」
まずあたしはスマートフォンで地図を開くだろうし、待ち合わせも電話したらいいだけだ。
「せやった。てゆうか雨夜ちゃんまでなんで関西弁」
「関西弁うつるわー」
一瞬真顔になった宇宙人だったけど、何故かその後の彼はやけに機嫌がよかった。
《スター・トラベラー》にざっと校内施設を外から案内されたけど、T大学公式のオープンキャンパスのツアーが別に存在する。あたしはそれに参加するつもりだった。
「ほなら後でね」
彼は彼で模擬授業の支度があるからと、一度別行動をする事になった。少し離れた後で保育園児みたいに手をブンブン振ってくる青年に、あたしは手をあげるだけで応じた。
時間になると、キャンパスツアーの参加者や先導者が集まった。ガイド役はあたしと年が変らないくらいに見えるから、ここの学生さんなのだろう。
「こんにちは! 今日はこの暑い中、キャンパスツアーにご参加ありがとうございます。短い間ではありますが、大学生活の面白さを知ってもらえるといいなと思います」
笑顔でハキハキとしゃべる男子学生は人前に立つのが得意のようだった。あたしはそういうのは苦手だから、素直にすごいなと思った。
ツアーではさっき外から見た施設を、中まで入ってどういう授業で使うのか説明してくれた。学食は五ヶ所もあって、カフェみたいなオシャレなところや、広いスペースで大勢の学生が飲食できる学食もあった。そんな学食で、真夏だし熱中症予防のためか、ツアーのみんなで少し休憩してお茶を飲んだりした。
「それでは、これから模擬授業を二つ受けてもらいます」
小休止を挟んで、ガイド役が本題に入る。校舎のひとつに向かってあたしたちツアー参加者を連れて行き、ある講義室の前で止まる。
「二つ目の授業は講師が《スター・トラベラー》の人なので、遠い宇宙の面白い話が聞けるかもしれませんよ」
ガイド役が何を言っているのか、あたしはすぐには分からなかった。
あたしの同行者でもあった青年の事について話しているのだ――そう気づくと同時に、紹介の仕方としてはおかしくないかと思った。
「えーすごい」「おれまだ生で見た事ない」周りのツアー参加者がささやき合う。
客寄せパンダ――その言葉を知ったのはわりと最近で、うちの父さんが口にしていた。
宇宙の彼方からやって来た彼は、この地球では人目を集める。それは仕方がない事だけど、なんだかいやな気分になった。
まず彼ら《スター・トラベラー》は地球人に自分たちの文明を持ち込まないと宣言していて、彼らの事情は話せない事が多い。それに地球ネーム夙也という男は、遠い宇宙の面白い事を専門にして勉強に来ているのではない。言語学を専攻している学者だ。なのになんで、あんな言い方をするんだろう。
あたしは気づくと、ツアー先導者の背中を睨みつけていた。
最初の模擬授業担当は地球人のおじさんだった。高校にもよくいる間延びした話し方をする先生で、ツアー参加者の半分以上を眠らせていた。
暑さで少し疲れていたし、あたしもちょっと眠くなってしまったけど、まさか望んでやってきたオープンキャンパスで居眠りする訳にはいかない。
何を専攻にしている先生なのかも忘れてしまったけど、あたしはなんとか寝入る事なく最初の授業を終えた。模擬授業なので本当の大学の授業時間より短かったのは、助かった。
おじさん先生が退室し、同じ講義室に次の講師役がやってくる。今度は入ってきたのが地球出身じゃないせいか、さっきよりまともに授業を聞こうと顔を前に向ける聴講生が増えた。
あたしと別れた時と同じ格好をしていて何も変らない彼なのだけど、何かが違っているように思えた。
「こんにちは、未来の大学生のみなさん。伊東夙也って言います。自分は比較言語学を専攻にしており……」
最初は少し微笑んでいたが、そのうちに彼は真面目というか、淡々とした顔になる。自分の授業を予定通りこなそうと真剣になっているようだ。
また、知らない人のように見えた。
普段の無邪気な笑みは消え、イントネーションはそのままでも丁寧な敬語を使っていた。まるで、営業中のサラリーマンみたいに。
あたしは、梅雨明け直後の初夏の事を思い出していた――。
正直に言えば、彼の授業は想像以上に普通だった。言ってる内容は高校生には少し難しかったとはいえ、ちゃんとした教師みたいだったし、長年勉強してきた事があるから他人にもいろいろ教えられるんだなあと感じた。高校の先生とそこまでの差はない。少し雑談をまじえる時もあったけど、脱線しすぎない程度で終わったし、ちょっと笑いもとっていた。言語学っていう分野はよく分からないけど、なんとなくはイメージできそうな気がした。
言い換えれば、地球人の教師となんの差もない。
そう、なんにも変わらないのだ。
最後は「質問があればどうぞ」というお決まりの文句で終わった。おじさん先生の時とは違って、数人のツアー参加者が手を挙げたけど「今の授業に関係ない事は受け付けませんよ」と彼は思い出したように付け加える。すると全員がバラバラと手をおろす。
簡単に挨拶すると、《スター・トラベラー》は静かに講義室を出て行った。なんとなく、場に白けたような空気が残る。
ガイド役が出てきてツアー参加者をまた別のところへ移動させるが、もうガイドの話はあたしの耳に入ってこなかった。
なんとなく、ああなるのは予想できていた。
彼が変な質問に困ってしまうんじゃないかとも思っていた。でも、そうはならなかった。地球人に慣れてきてると言えばいいのか、既に聞かれたくない事ばかり質問された経験があって、予防線を張る必要があると知ってしまったのかもしれない。それはなんだか、少し寂しいような気もした。
地球人は、そんなにミーハーなやつばかりじゃないよって、宇宙人だからっていう見方しかできないやつばかりじゃないよって、知ってほしかった。でもそれを言うには、あたしはもう彼自身の事を知りたくなってしまっているけれど。
「え」
思わず口が動いた。
いや、知りたいってなんだ。
別に意味深な理由じゃない。相手の事をよく知りもしないで肩書きや見た目だけで判断してる訳じゃない、って言いたいだけだ。あたしは夙也が宇宙人だからって仲良くしてる訳じゃないって事。
あれ? それってかえって意味深じゃない……?
いつの間にかキャンパスツアーは終了しており、参加者はみな解散していた。周囲の人影がまばらになっていてやっと気づいた。なんとなく前の人につられて正門まで歩いて来ていたが、今日のあたしは一人だけでここに来たのではない。
とりあえず最初にツアーの集合場所になっていた広場みたいなところを目指す。
「あ、そういえばアイツの連絡先知らないや……」
スマートフォンで同行者を呼び出そうとしてあたしは立ち止まる。これまで必要ないと思ってたけど、こんな日が来るとは。模擬授業の後はどうやって再会するか決めていなかった。なんとなく、授業後は彼と一緒に講義室を出るものだと思っていたから。
正門が近いこの広場で待っていればすぐに会えるのかな。それともさっきの講義室に行ってみようか。そんなに遠くはなかったはずだし。迷うあまり、広場を少しうろうろしてしまった。
しかし日差しが肌に痛いくらいに暑い。待つならどこか室内がよさそうだ。それに持ってきたお茶もなくなってしまったから、新しく飲み物を買いたい。自動販売機を探したいけど、やっぱり先にあいつを待った方が……。
「ねーねーキミ、さっきオープンキャンパスに参加してたコでしょ。どうしたの、迷子? 道教えたげようか」
広場に近い校舎の前に行きかけた時、声をかけられた。ここの学生だろう男子二人組だ。一人は髪の毛の色が派手で、あたしはちょっと苦手なタイプだ。
「てゆうか、暑いしせめて室内入りなよ」
それはあたしも思っていたから、つい彼らに従いそうになる。
「ごめん、待った?」
不意にあたしの肩を掴む者がある。あたしと二人組が目にしたのは、地球の生まれではない存在――夙也だ。
引きしまった表情の彼の横顔に、あたしは瞬きした。
学生たち二人は教師にたしなめられたみたいな、気まずげな表情になる。二人組が立ち去るより早く、宇宙人はあたしに「行こう」と言って歩き始めた。
校舎内に入っていき、角をいくつか曲がると別の校舎につながる廊下を進み、やっと彼は立ち止まった。
「今の、ナンパ? 雨夜ちゃんかわいいからそんな日、いつか来るんやないかと思ってたけど!」
嫌そうな顔で両手を広げ謎の主張をしてくる大気圏外出身の男。なんだそれは。
「ええ? 単なる親切心じゃないの?」
暑いのに外をうろうろしてる人物がいたら、心配にもなるだろう。近くに建物もあるんだから、せめてそこでうろつきなよ、と言いたくもなる。
「あかん……無自覚すぎる……雨夜ちゃんて初対面の人にはつんでれせえへんからな……おとなしくてかわいい女の子にしか見えへんねや」
ブツブツうるさい男は、たぶん地球人とはいろんな感覚が違うのだと思う事にする。てゆうかあたしがわざと猫かぶってるみたいに言うなよ。人見知りするんだよ。
しばらくうなった後、彼は顔を上げた。
「って、外で待たせるつもりはなかってん。ごめんなー」
「別に……」
もともとあたしがどこで待ち合わせるか聞いてなかったのも悪いんだし。
「ちょっと暑かったけど」
「ほなら休んでこー?」
この先に学食があんねん、と彼は続ける。喉も乾いてたし、反対する理由はなかった。
そこはいくつかある学食のうち、ツアーでは通り過ぎただけの場所だった。学生もほとんどおらず、静かだった。
彼は待たせたお詫びにあたしにペットボトルのジュースをおごると言った。そこまでの事じゃないのに、と思ったけどもう自動販売機から飲み物が出てきた後だったので仕方がない。
「てゆうか、自分のは?」
一本しかペットボトルを持ってない彼に、あたしは受け取っていいのか分からなくなる。
「あー、あんま飲まんでも大丈夫なんよ」
そうか。彼の見た目は地球生まれの日本人だけど、地球人でも人間でもないんだった。もしかしたら水分補給は人類ほど必要ではないのかもしれない。あるいは、外をうろついて汗だくのあたしと違って模擬授業の支度で冷房の利いた室内にこもってたからかもしれないけど。
学食の端の方に座り、あたしがもらったジュースを飲むのを確認するかのように見つめた後、彼は口を開いた。
「で、キャンパスツアーどやった?」
あたしは学食のメニューが気になった話や、校舎によって古い新しいがあるのが不思議だった話をした。図書館も高校のものと比べたらものすごく広くて、そこだけで迷子になりそうだった。
ふと、彼自身の模擬授業については聞かないのかと思ったけど、なんとなく言えなかった。
あんな、客寄せパンダみたいな事をさせられて。授業に関係ない質問はナシって言った口ぶりからすると、自分に与えられた仕事が何なのか分かってるみたいだった。視線も合わせづらい。
だからあたしはごまかすようにいろんな話をして、
「大学ってすごそうだなって思った」
思ってる事をよく考えもせずに口にしていた。
よその星でがんばる宇宙人の事もいろいろ考えさせられたけど、あたし自身の事は――何も変わらないまま。オープンキャンパスに来たら少しは何か分かるかと思ったのに。何も分からない。
「いろんなこと学べそうで、選択肢がたくさんあって……」
だからこそ、何を選んだら正解なのか、分からなくなりそうだ。
あたし、高校に入ってからずっと同じ事ばかり考えてる。
誰も彼も、早く大人になれってあたしを急かしてくる。ただの子どもでしかない自分でいないで、早く人を助ける仕事を目指して走り出しなさい、って。早く何者かになれ、って。何も知らない子どもでいられる期間は、あまりにも短い。
焦るばかりであたしは何も見つけられなくて、自分の中を粗さがししても何も見つからず、かえって虚しくなる。
そんな事が、去年からずっと頭の中を回っていて――。
立ち止まってるのさえ怖くなって、オープンキャンパスにも来たけれど。
「ちょっと、大変そうでもあったかな」
この大学で学び活動するあたしの姿が、上手く思い描けない。
「……でも、世の中だいたいの事そんなもんやで」
自分の声が暗くなっていた自信はある。なのにこの男ときたら、わりとはっきりと淡々として言った。思わず顔を上げると、やつはどこか別のところを見て頬を掻く。
「スーパーとか行っても、めっちゃ商品あるやん。なんやみんな美味しそうやし、どれ食べたらええんか分からん」
んん?
今その話、関係あるの? 何と言ったらいいか分からなくて、あたしはとりあえずペットボトルに口をつける。
「電車だって東京の路線、複雑すぎひん?」
「はあ」
それはそうだけど、電車や地下鉄の乗り換えなんてスマートフォンで調べればすぐに分かる事だし……。
怪訝な顔をしていたら、ぱっと彼と目が合う。何故か彼は嬉しそうだ。
「でも自分がやりたいコト分かってたら、すぐに商品も手にとれるし、行き先に連れてってくれる京王線に乗れる。全部に目ぇ通さんと、自分の目的とか楽しいを優先すんのでええと思う」
やりたい事が分からない。
自分の事も分からない。
だから迷っているのに。
「自分の事知っていったら、すぐにやりたい事見つかると思うで。いきなり全部はムリやから、少しずつでええやんか」
進路指導の教師と、さほど変らない事を言ってるっていうのに。
この屈託のない表情や、地球生活では新人だからの無垢さみたいなものを見ているとなんだか――信じてしまえそうになる。彼の言葉を。自分の事を。新しい未来を。
もしかしたら、あたしは自分自身が信じられない自分を、誰かに信じてほしかったのかもしれない。
「……知ったような口を」
あたしはこいつに進路の話なんてほとんどしてないのに、見透かすみたいに言われて、なんとなく居心地も悪くて――素直にお礼なんて言えなかった。
「すいませんでした」
相手は即謝ってくる。いやそんな声低めてないんだけどな。
「冗談だよ」
あたしは笑って相手の頭を上げさせる。
「いいなあ、なんか。無闇に悩まないやり方、知ってるみたいなところ」
道が一本しかないのに通行止めになってると思ってたら、こっちに別の道あるで、って教えてくれるみたいなところ。冬に失恋コースを案内してきたみたいに、別の視点をくれる。なんだか彼がすごく羨ましくなった。
「それって褒めてるん?」
「褒めてる褒めてる」
二回も繰り返すから信用できない、って顔をされたけどあたしは無視した。
「あのさ、さっき思ったんだけど、あたしたち連絡先交換してないよね」
あたしはスマートフォンを取り出して、画面上で連絡先交換の準備を始める。
「……え」
あたしは夙也が自分のスマートフォンを出すのを待っていたけれど、なかなか用意しない。それどころかぽかんとあたしの顔を眺めるだけ。
「それは……連絡先交換しようって、ことなん?」
「他にどういう意味に受けとれるの」
「え、だって雨夜ちゃんそういう話してくれた事、一度もないやん」
確かにそうだけど、なんとなくタイミングを逃していただけだし、連絡先を知っておいた方が楽って思ったのも今日が初めてだし。
「えっヤダ嬉しいわ〜」
驚愕から一転、宇宙人はふにゃふにゃ笑いながら頬に両手を添えて身をくねらせる。
「やっぱやめよう」
「ちょ、なんで?!」
しばらく他の事を考えこんでるフリをして、最後には連絡先交換した。
あまりにも“いつも通り”すぎる彼に安心した自分に気づいたって事は――内緒だ。