其ノ五 狐火の市
(あれが狐火ん市なんか? すごかぁ! ほんなこつ(本当に)あったんや!)
イツキはサトコの腕の中を抜け出し、走り出そうとした。
ところが、手をギュッとつかまれて振り返ると、サトコが首を横に振る。そして、面を外しながら、はっきりと口に出して言った。
「イツキ、帰ろう」
とたんに、階段の踊り場の灯りが、ゆらりと揺れた。チカチカとまたたきながら、ゆっくりと遠ざかる。
(嫌や! 消えんで! やっとたどり着いたとに!)
見る見るうちに遠ざかってゆく。イツキは地団駄を踏むような気持ちで叫んだ。
「姉ちゃん! なしてしゃべってしまうと? すぐそこに狐火の市が見えとおよ!」
「姉ちゃんの宝物はイツキばい。他に差し出すもんも、欲しいもんも、なかとよ」
「ぼくは姉ちゃんの……姉ちゃんの本当ん弟になりたか(なりたいんだ)! 狐火の市なら、そげなもんが売っとるかも知れんのに!」
狐火の灯りが、海中から見る月のようにゆらゆらと、頼りなく、イツキを誘うように揺れる。
「姉ちゃんのアホ! 手ばはなせ! ぼくは狐火ん市へ行く! 姉ちゃんの本当の弟になるったい(なるんだ)!」
泣きながら暴れるイツキを、サトコが思い切り引き寄せて、抱きしめた。
「血がつながっとおのが、そげん(そんなに)えらかとか(偉いの)? 姉ちゃん、そげんもんには絶対負けんばい! 本当も嘘もなかと! うちは一生、イツキの姉ちゃんばい!」
サトコの強く迷いのない言葉が、荒れた心に柔らかく染みてゆく。
姉ちゃんは、ずっとぼくの姉ちゃんだった。本当の姉弟じゃないなんて、考えたこともなかった。これからも、きっと絶対、それは変わらない。
(なんや、今まで通りやなかか。心配する必要なん、なったんね)
イツキはへなへなと腰が抜けたように座り込み、姉ちゃんのあほーと言いながら、わんわん泣き出した。
「あほうはイツキん方やろ! 宝物も持たんで行ったっちゃ(行ったって)、何も買えやせんやろう? だいいち、作法ば守っとらんかったやなか! 走ったらいかんばい!」
サトコがいつも通り口うるさく言いながら、イツキに背中を向けてひざまずく。腰に添えた手を、ちょいちょいと呼ぶように動かす。おんぶしてくれる時のいつもの合図だ。
「姉ちゃん……ぼく、もう二年生ばい」
「知っとおよ。姉ちゃん鮎川先生やけんな。はよこんね(はやくおいで)!」
(なんでそげん嬉しそうなんやろう。狐火の市へ行けんくなってしもうたんに)
イツキは内心、そう思いながらもサトコの背に乗った。そして、惜しいことしたとは思いながらも、そう悪くない気分でいる自分に驚いた。
こんな風におぶってもらって歩くのは久しぶりだ。
「ふふふ。イツキ、重うなったなぁ」
「もうちょっと大きゅう(大きく)なったら、ぼくが姉ちゃんばおぶってやるばい!」
「泣き虫坊やが、背中でなんか言うとおばい!」
サトコがケタケタと笑いながら言った。
サトコの背中で振り返ると、石段の伸びる山道の上には、真っ暗な月のない夜空が広がっていた。イツキは、ケーンと一声、狐の鳴く声を、聞いたような気がした。




