其ノ十 それからのニア
ハルカは無事に、男の子を出産した。産声は廊下でウトウトしていたニアが、飛び起きたほど大きな声だった。
初めての授乳の時もすごい勢いで乳を吸い、ハルカが「これじゃ、あっという間に萎れちゃう!」とオロオロしながら言っていた。
きっと元気な子に育つ。
狐の婆さまの術は途方もなかった。ニアとダイスケの変化を保ちながら、きっちりと結界を張ってくれてた。互いの領分を守り、存在を影響し合わないように分ける結界は、一段階も二段階も上の術だ。
(はじまりの命が唸るほどいる産院に、魂だけのダイスケを紛れ込ませてしまうにゃんて、どれだけすごい術者なんだにゃー)
ハルカは無事に退院して、目が小さくて口の大きな、ダイスケそっくりの赤ちゃんを連れて帰って来た。
あまりにダイスケにばかり似ているので、ハルカは自分で産んだくせに『本当にあたしの子かしら?』などと言っていた。
ダイスケは『ハルカに似れば可愛かったのに、なんかすまん』と赤ちゃんに謝っていた。
「何言ってるの? 天使じゃない!」
ハルカが言うと、ダイスケは嬉しそうに笑った。
そしていよいよ、お別れの時が来た。
(ダイスケはどこへ行くにゃんか?)
ニアの素朴な疑問にダイスケは『俺にもわからんが、たぶん“はじまりの場所”へ』と答えた。
ハルカが『あたしが行くまで待っててよ?』と言うと『ああ、待ってるから、ゆっくり来い』と笑った。
「ハルカ、おまえが一人なら、連れて行きたいけれど……」
「あたしも一人なら、連れて行って欲しいけど……」
その続きは、二人とも口にはしなかった。
ニアの耳飾りの、赤いガラス玉が砕けるのと同時に、ダイスケの身体が透けてゆく。
最後に残った手は、猫又姿に戻ったニアの首の後ろを撫で、スヤスヤと眠る赤ん坊の頭を撫で、ハルカの頬を掠めて消えて行った。
ハルカはダイスケが消えた空間を見つめ、声も出さずにハラハラと涙を流していたが、赤ん坊がお腹が空いたと泣きはじめると、急に母親の顔になった。
「泣いてばかりはいられない! あたしはお母さんだもん!」
二人で『頑張ろうね! ニア!』『おー!(にゃおーん!)』と拳(肉球)を振り上げた。
母が強いのではない。強く在らねばと覚悟を決めた女が、母という生き物になるのだ。
ニアとハルカは、今、共に母となった。
新米ママの生活は、実際目が回るほど忙しい。正に、猫又の手も借りたいとは、このことだろう。
(もちろん貸すにゃーよ! ニアは役に立つ猫又にゃん!)
哺乳瓶くらいは二股尻尾で持てる。尻尾の猫火は温度が低いので、ミルクを人肌に温めるのに持ってこいだ。
昼寝の添い寝もお手の物。尻尾でうちわをパタパタとあおぎ、にゃんにゃんかにゃんと子守唄まで歌う。
ハルカとニアは、目まぐるしくも楽しく、子育ての日々に追われていた。
そんなある日。ニアの元に、猫又修行の通知が届いた。
(次の猫又修行は七歳、まだまだ先のはずにゃのに。にゃんでにゃ?)
差出人は猫仙人さまではなく、狐の婆さまだった。
『猫又の小娘。猫仙人の爺いに話はつけてある。お主は婆がもらった。婆が立派な仙狐に育ててやる。毎月、新月の晩には、必ず狐火の市へ修行に来い』
(もらったって……。にゃーは猫又なのに仙狐になるにゃんか? なれるにゃんか?)
ニアの日常は、ますます平穏とは遠ざかってゆく。
(狐の婆さまの修行、なんか怖いにゃんよー!!)
夏の終わりの静かな晩に、猫又ニアの悲痛な叫び声が、にゃんとひと声、響きましたとさ。
―おしまい―
『狐火の市シリーズ』ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
猫又ニア編、いかがでしたでしょう? 実は作者初の三人称作品です。少しでも夏の夜のお供として、楽しんで頂けたらと思っています。
あともう三、四本、『狐火の市』『夏の夜』『少年少女』『昭和レトロ』をお題として書くつもりです(一つ二つ外れるかも知れません)
遅筆では御座いますが、日々精進して参ります。時折り思い出して、ページを開いて頂けると、この上なく幸いで御座います。




