008.契約
ほんの少しの間、その場には悲鳴と血がほとばしった。天使は喜々として、父上と母上の身に起きたであろう拷問を衛兵たちの身体で再現してみせる。無論、長くきらめくその髪で、だ。
私は目を背けることなく、その光景をじっと見ている。途中で幾度か吐き気を催したけれど、それでも私は目をそらさない。
これが、父上と母上の御身に起こったこと。完全再現ではなくとも、似たようなことは起こったそうだから。
そうして、その再現は私が命じて天使にやらせた。だから、私は責任者としてしっかりと、それを最後まで見届けた。
「カタはついたぜ。主」
「ありがとう」
未来を失った衛兵たちの懐を漁りながら、天使はこちらを振り返る。綺麗な姿をしているのに乱暴というか、そういうところが悪くはないと思ってしまうのもどうかしらね、私。
「ほれ。任務中だっつーのに結構持ってんのな、こいつら」
そう言って天使が私たちの足元に放り出したのは、財布や袋に入った携帯食料、そして水筒だった。確かに、死んだ者には必要ないものばかりだけど。
「これは」
「生きてる人間にゃ必要だろうが。主が使え」
「……そうね」
天使には必要ないらしいそれらを、私は屈んで拾い集める。血のついていない小さな鞄があったから、そこに入るだけ詰め込んだ。
贅沢を言っている場合ではなかったわ。屋敷から身一つで逃げ出してきて、今も正直に言えばお腹が空いている。お金が少しでもあれば、必要なものを買うことができるしね。さしあたっては……街を歩いても目立たないような服、かしら。
泥棒をするのも気がひけるけれど、それ以前に私はもう人殺しだしね。天使に命じてやらせたのならば、責任は私にあるわ。供養と思って、使わせてもらいましょう。
地面に放り出されたようにも見える衛兵たちの骸を一瞥して、天使は軽く肩をすくめたわ。
「これがそのうち見つかるから、主の生存は伝わるだろうな。俺様の存在……とまではいかねえが、協力するやつがいるってのも」
「貴族の小娘一人だけでは、こんな所業は無理だものね」
「そういうこった」
そう。私一人では、数人の衛兵を相手にするなんてことは無理。父上や兄上が武器を取っていれば別だったかもしれないけれど、私が帰ったときには既に武装解除がなされていたようだものね。
私を探しに来た衛兵たちが全て殺されているのだから、当然誰かの協力を得ていると考えるだろう。それが今目の前にいる天使だとは分からなくとも、ドーキス殿などであればアンヘリエールに伝わる伝説の力だと気づくはずね。
「……さて」
そこまで考えていた私の方に、天使が向き直った。血に塗れた森の中、相変わらず純白のその姿は浮かび上がって見えるわ。
天使はにいと歯をむき出しにして笑うと、言葉を続ける。
「ここまでは、主と本契約するためのサービスだ」
「本契約?」
「そ。主が死んだら契約もへったくれもねえからなあ」
なるほど、天使の言うことにも一理あるわね。契約ができないまま私が死んだら、……はて?
契約者が本契約をする前に死んでしまったら、天使はどうなるのかしら。その辺りは分からないけれど、分かる方法もないからやめておこう。
それにしても、今までは仮契約状態だったのね。それで衛兵の始末をあっさり聞き入れてくれるなんて……天使の思考は、人間とは違うのかもね。
「俺様は、アンヘリエールの娘に使役されその望みを叶えるために働く……まあ、天使っつーてもただの使い魔だわな。だが、使い魔との契約に必要なもんは知ってるか、あんた」
天使は淡々と、自身の置かれている立場について説明してくれる。使い魔、と言われて私は納得したわ。そう呼ぶには、天使はあまりにも強いけれど。
強力な魔術師であれば、魔物や精霊などを使い魔として使役して自身の世話をさせたり、戦に使ったりすることがある。この天使もそういう扱いで良いらしい。私は強力も何も、大して魔術の力を持たず修行すらしていない小娘だけれど。アンヘリエールの家に生まれた娘、だからこの天使を従えることができるだけ、らしいし。
そんな私でも、使い魔との契約に必要なものは知っているわ。母上から教わったから……もしかして、この時を予測してのことだったのかしら。
「……お互いの名前を、相手に伝えることね」
「そ。ただ、俺様は天使なだけあってちょいと特殊でな。自分から教えることは許されてねえ。面倒くせえけど、そういう決まりでよ」
主は自身が使役する使い魔の名を持ち、使い魔は自身が仕える主の名を持つ。その上でなければ、主と使い魔の契約は成立しない。そういえば、そうだったわね。
私の名前は先程伝えたけれど、天使は自分の名を出せないという。……それはつまり。
「ヒントもなしに、あなたの名前を当てろというの?」
「ヒントは一応あるはずだけどな。あんたの手に」
私の手に。天使にそう言われて、じっと手を見る。そうして視線が向いたのは、天使を呼び出すことができた指輪。
あ。
なるほど、そういうことね。
「あなたの名前は……グリギーア、ね」
「正解だ。我が主、フランチェッタ」
そう答えながら天使……グリギーアは、初めて私の前に跪いた。長い髪は翼を形作り、ぱたんと一つ空を打つ。
指輪の内側に彫られた『グリギーア』。それが、これより私に従うあなたの名前。
「これより天使グリギーアは、アンヘリエールの娘フランチェッタを主としその意に従うことを誓う。主が死する、その日まで」
言葉を紡ぎ終わって、グリギーアは私の足の甲にそっと、口づけた。