006.選ぶ権利
「は」
くるりと私を見た瞳は深い湖の色で、薄い唇から流れ出る声はまるで鈴のよう。長い長い髪は真っ白で、纏うシンプルなドレスも真っ白で。その姿で地面に座っていては、素足が汚れるのではないかしら?
「お前さん、アンヘリエールの娘だろ?」
そんな私の気持ちと、あっけにとられている衛兵たちのことをまるで意に介さず女性……かどうかは分からないけれどそのひとはひょいと立ち上がり、私の顔を見てそんなことを口にした。
……私より、頭一つ分は背が高い。手足も、身体そのものもほっそりとしていて血管が透き通りそうなほどに白い肌で。
その姿の割に座り方だけでなく髪をがりがりと掻く仕草も、そして言葉もはしたないけれど、なんだか指摘する気にはなれないわ。
「その指輪で俺様を呼び出せるのは、アンヘリエールの娘だけだ。そうだろ? はっきりしな」
私の手にはまった指輪を示して、そのひとはそう言う。そうして、自分の左手をひらりと示した。……薬指に、私がはめたのと同じ指輪が光っている。
同じ指輪をして、こちらが名乗りもしないのにアンヘリエールの家名を出してきたそのひとに私は、頷くしかないらしい。
「は、はい。アンヘリエール家の長女、フランチェッタと申します」
「おう。それなら、お前さんは俺様の主だ。問題ねえ」
指輪に秘められた力……なるほど、そういうことか。
伝説に示された力とはつまり、指輪をはめたら突然現れたこのひとのことを示しているのね。そうして、衛兵たちを動かしている者が欲しているのも、きっと。
どうやら、私が指輪をはめなければこのひとは現れなかったようだし。ドーキス殿が私と指輪を手に入れようとしたのは、このせいね。
「あの、あなたは」
「……んー。種族で言うなら、天使?」
私の問いに、そのひと……天使はそう答えた。名前は名乗らないのね。あるのかないのか、それは分からないわ。
天使。神の使いとして地上に遣わされた存在で、私たち人よりもずっと強い力を持っている……という伝説の中の存在。
神殿やあちらこちらの貴族の屋敷、そして王城などにも天使を扱った芸術は存在している。そのどれもが背に大きな翼を持った存在として天使を描いているけれど、私を主と呼ぶ天使の背中に翼は、ない。
「な、何者だ貴様!」
「お?」
やっとのことで、衛兵たちが正気に戻ったみたい。その中の一人がそんな言葉を放ってきたので、天使はそちらを振り返った。ふわりとなびいた白い髪が、一瞬鳥の翼のように見えたわ。
「だから、今言ったろ? 種族で言うなら、俺様は天使ってやつだ」
「ふざけるな!」
「その女をこちらに引き渡せ、そうすれば貴様に危害は加えない!」
「……あー? 何言ってんだてめーら」
「いいから、そこから離れろ。その女は王国への反逆を企てた一族の生き残りだ!」
衛兵たちが口々に、私を引き渡せと天使に言う。天使はあまり、聞く耳を持たないという感じね。
それよりも。
……一族の生き残り、と衛兵の一人は言ったわ。あれからせいぜい二日しか経っていないのに、もう皆は誰かの手に掛けられたというのかしら。どこのどなたかは存じ上げないけれど、ひどくお急ぎになったようね。ぎゅう、と拳を握る。
おのれ、エシュヴィーン殿下。
おのれ、ジャスティアーナ様。
おのれ。
「ん」
ばさり、と大きな翼が羽ばたく音が森の中に響いた。はっと視線をそちらに向けると、天使が翼を広げていたわ。
翼、とはいってもそれは長い長い白い髪。それが両側に大きく広がって、翼の形を作っている。背中ではなく、耳の後ろに翼が広がっている形になるわね。
「俺様の主が、どこぞに対してひどくお怒りのようなんだが」
「お怒りなのは国王陛下と王太子殿下の方だ! これまで手厚く扱ってやったくせに、裏では謀反を企んでいたとな!」
「ふーん」
天使はあくまでも淡々と言葉を紡ぐのに、衛兵たちのほうが妙に怒り狂っている気がするわ。
それは、私もね。天使の言う通り、私はきっと内側でとても怒っている。こちらの言い分を聞き入れることなく、おそらくは一族を手に掛けたであろう方々に対して。
ただ、ここでそれを表に出したところで私には、何もできない。できるとすればそれは、私の目の前にいる天使なのだと思う。
「あ、悪魔!」
「悪魔? そっか、今も昔も呼び方は変わんねーんだな」
天使に向かって、衛兵は違う呼び方をした。悪魔、すなわち神と天使に歯向かい世界を壊すものの総称。
そうね、あなたたちの世界を壊そうとするならば、それは悪魔かもしれないわね。
「敵は悪魔って呼ぶし、味方は天使っつーな。ま、どっちでもいいんだけどよ」
「何だと!」
「おっと」
衛兵の一人が突き出してきた槍の穂先を、天使は手すら出さず頭を軽く振っただけで受け止めた。髪の一部がまるで生きているかのようにうねり、槍に絡みついたのだ。
髪の毛のみで武器を捉える、敵が悪魔と呼び、味方が天使と呼ぶ存在。この天使はかつての戦いにおいて、やはりそう呼ばれてきたのだろう。
私にとっての天使はこちらに向き直り、鋭い瞳で私を見つめた。口元が歪んで、牙と白い歯がはっきりと見えている。ああ、それならば敵から悪魔と呼ばれても致し方ないだろう。
「主。あんたには選ぶ権利がある」
「何を選ぶの?」
「あんたの敵を殺さずに排除するか、殺して排除するかだ」
悪魔、と呼ばれるにふさわしい恐るべき笑みを浮かべ、天使はそう私に告げた。