005.伝説の指輪
それから……卒業式の日から二日経ったはずの、朝。
隠し通路は、多分屋敷の近くにある森の中まで通じていたわ。途中から下り坂が上り坂に変わって、床が少し滑って手間取ったのだけれど。
何とか森に出ることができたときには、暗い空の色がほんのりと変わり始めていた。屋敷に到着したのが夕方、そこから考えると屋敷を逃げ出した時はおそらく夜中。……夜の間、私は隠し通路を歩いていたことになる。そのくらいの距離に森があることは、よく知っていたから多分そこなのだろう。
一人残された私は、森を抜けるために指輪を握りしめたまま、ただひたすら歩くこととなった。この森は水が豊富で、時々泉や川に突き当たるからそれは問題ない。食事は……卒業式の前に食べた朝食以来何もお腹に入れていないけれど、変なものを口にして体調を崩すことはできないから、水だけでしのぐ。
「……お腹が空きましたわ……」
いえ、言葉にしても仕方ないのだけどね。祈るつもりもないし。
一応神を信仰する宗教はあるけれど、今ではほとんど形だけのものになってしまっている。祈ったところで救いの手が差し伸べられるわけでも、食事が出てくるわけでもない。
季節的に木の実はないだろうし、葉っぱや草はどれが食べられるものだか分からない。動物を狩ることも無理だし、そもそも解体なんてできないわ。どうすればいいのか、知らないもの。
だからひたすら、水を飲んでは歩く。夜はさすがに、岩や木の陰で休んだけれど……獣に襲われていないのは、ただの幸運でしかないかしらね。神様が本当にいらっしゃるならそもそも、私はこんなところに来ていない。
「……まいったわね」
靴を脱ぐと、かかとや親指が赤くなっている。ドレスの裾を引きちぎって巻いて、靴を履き直した。森の中を歩くのに、裸足では無理だもの。
そこでふと、指輪に視線が行った。見た限りでは金色の、石も装飾もないシンプルな指輪。多分、私の指よりサイズは大きいと思う。我ながら手に持ったままで、よく失くさなかったものね。
「あ、あった」
もしやと思って指輪の内側に目をやると、そこにはうっすらと文字が見えた。グリギーア、と読めるそれは誰かの名前なのだろうか。少なくとも、アンヘリエールの一族にそのような名前の者はいなかったはず。
まあ、覚えておいて損はないと思う。この指輪は我が一族に伝わる伝説の指輪で、そこに刻まれた文字であれば何かの意味があるはずだから。
それはそれとして、この先のことを考えなくてはね。
おそらく父上も母上も兄上も、もう長くはないだろう。もしかしたら既に、処刑されているかもしれない。何しろ、王家への謀反を企てた反逆者の一族、ということになっているのだから。
つまり、この国にはもういられない……私が生き延びるならば、何とかして国境を超えなければならない。けれど王都のすぐそばにある我が屋敷は、つまりは王国のほぼ真ん中にあるといってもおかしくない。それはこの森も同じこと。
そこから国境を超えるためには、一番近くても数日は歩かなくてはならないわね。普段歩き慣れていない私だから、時間がかかるのは当たり前。
必死で歩いて歩いて歩いたけれど……お昼を過ぎた頃、私は衛兵部隊の一つに追いつかれた。ドーキス殿でしょうね、手配が早いというか……手近で出口のありそうなところに部隊を派遣したら当たった、ということかしら。
「見つけたぞ!」
「生かして捕らえよ。馬車で王都まで護送する」
まあまあ、皆様やる気と剣を存分に向けていますこと。ここ数日ろくに食事も取れていない、女一人に対してね。
どうやら私には、捕らえたときにどこかから報酬が出るらしいわね。あの衛兵隊長の仕業かしら、それとももっと他のところから?
まあ、どうでもいいけれど。あまり頭が働かないのは、空腹と疲れからね。
『いざとなったときにだけ、指にはめるのよ』
母上がおっしゃった、いざとなったとき。
私の周りには十数人の衛兵がいて、槍や剣をこちらに向けている。目的は私の捕縛で……近くに置いてあるらしい馬車に私を積んで、意気揚々と王都に戻るつもりなのね。
その後、私はどうなるのかしら。ドーキス殿の言いぐさから考えて、殺されることはないだろうけれど……戦の道具には使われるかもしれないわね。隣国とは今のところ国境を争っている様子はないけれど、それは表向きかもしれないし。
衛兵に囚われるわけにはいかない。今が、そのときよね。
「……ただの指輪だったら、それでもいいわ」
それならそれで、これはきっと母上の形見となろう。それならせめて誰にも取られないように……腕ごと取っていくならまあ、あきらめるしかないけれど……と思いながら私は、指輪を左手の薬指に滑らせた。
やっぱり、少しサイズは大きかった。けれど、見る間にそれはしゅるりと縮まって、私の指にちょうどよいサイズに収まる。
こんな魔法、誰が組み立てたのかしら。アクセサリーや服や靴を、自由にサイズ調整できるなんて。そんなことをと思っていたら急に、指輪が光を放った。一瞬だけど、とても眩しい光。
「きゃっ」
「うわっ!」
「なんだ!?」
さすがに衛兵たちも眩しかったようで、目を押さえる。ただ、私の背後にいる者たちは私自身のせいで光が届きにくかったみたいで、多分逃げ出すことは無理ね。
「くぁーあ」
不意に、気の抜けた大きなあくびが聞こえた。衛兵たちがざわりとざわめいて、武器を構え直す。
そうして私の前に、今までいなかった人物が現れていた。あぐらというのかしら、はしたない座り方で地面に座り込んだ、全体が白い女性。……女性? もしかしたら男性かもしれないけれど。
その人はほっそりとした体格で、とてもとても長い純白の髪が地面の上にまで流れているから。
両腕を伸ばして、大きく背を伸ばしてからそのひとはふと、何かに気づいたように私の方を振り返る。
「……へえ。お前さんが、俺様の新しい主か」
そうして、皆が皆聞き惚れるような美しい声が、そう問うてきた。