004.暗闇の中へ
私たちはそのまま、応接間にいることを強要された。
室内の衛兵は減らされたものの出入り口に立っていて、目の前にはドーキス殿がどっかりと座り込んでこちらを見つめ続けている。トイレを使うにも、彼らの許可が必要となるなんて……それこそ、恥だわね。
ソファに並んで座っていると、父上がギリギリ聞き取れる程度の小さな小さな声で、囁いてこられた。視線は、こちらに向いてはいない。
「フラン。お前はここから逃げなさい」
「え」
私に、逃げろと言うのですか、父上。衛兵が、部隊が取り囲んでいるこの屋敷から。
どうやって、そしてどこへ。
……いえ。こういうときの手段を、私は一つ知っている。つまりは、それを使って逃げろということなのね。
でも、逃げるのは私だけ? 父上は、母上は、兄上はどうなさるおつもりなのかしら。
「我らの行く道は分かっている。このまま証言も何もできぬまま、処刑台に送られるだけだ」
「僕も殺されるだろうね。跡継ぎの男だから」
父上は、そして兄上は既に自分たちの生命はあきらめているようね。でも、私が逃げられたところで、どうなるものでもないわ。
……ドーキス殿は、こちらを見ていない。わざとらしく顔をそらし、私たちのひそひそ話に反応しようとしない。
どうしてかしら。普通なら、会話をするなとか咎めそうなものだけれど……おそらくは、こちらを探っておいでなのね。
父上や兄上がそれに気づいていないとは思えないからこれは、お互い出方を探っているということなのかしら。
「これを持って、お逃げなさい。いざとなったときにだけ、指にはめるのよ」
「母上?」
不意に母上が、私の手に小さなものを握らせた。これは、いつも母上がはめておられた先祖伝来の指輪。
この家の血を色濃く引く女にしか、その本来の力を使うことはできないという伝説のある指輪。かつて王国が造られる前に起きた大戦でアンヘリエールの先祖はこの指輪の力を使い、王家を国の主に押し上げたと言うわ。
アンヘリエールに生まれた女にしか使えない……だから、外の家から嫁いで来られた母上にはその力は使えなかったらしい。いつか、母上は私におっしゃっていたわね。
故に母上は、私にこれを託す。私こそが条件に該当する、唯一の女だから。
「父上、母上」
「お前が生き延びてくれればきっといつか、僕たちの汚名は晴れる。もう皆、生きてはいないだろうけどね」
「……兄上」
指輪を握りしめた手を、兄上がそっと包み込んでくださった。よくわからないけれど、私はこれを持ってここから逃げなければならないのね。
それが、この家の娘として私ができる、最後のこと。
「……分かりました、わ」
「お話は、終わりましたかな」
私が答えた次の瞬間、ここまでずっと無言だったドーキス殿が満足げな表情で立ち上がられる。……ああ、やはりジャスティアーナ様ととても良く似ているわね。その、淀んだ笑顔が。
彼がぽんと一つ手を打つと、すぐに扉が開いて衛兵が数名入ってきた。私たちの座っているソファを、しっかりと取り巻いた衛兵たちの向こうでドーキス殿は、さらに顔を歪められた。普通に笑えばそれなりに見栄えがするのに、どうしてこう醜く笑うのか。
「我らの目的は公爵家に伝わる、伝説の力を手に入れること。つまりその指輪と、どうやら使い手であられるらしいご令嬢です。力の全てを、傷つけずに確保せよというご命令でね」
「カラクレンのご子息。君が主導権を握っている段階で、そのあたりだろうとは思っていたよ。君のお父上、カラクレン男爵はうちの伝説にとてもとてもご執心だったからね」
ドーキス殿と、父上がにらみ合う。……この茶番劇は、私とこの指輪を手に入れるための、誰かが仕組んだお芝居ということ?
……ああ、そうか。ドーキス殿がご命令、というからには、彼の上位からの命令があったということよね。男爵家当主、もしくは……エシュヴィーン殿下、国王陛下までもがこれを企んでいた、というのかしら。
……それはたしかに、いくらあがいても無駄ね。本当に、王国の全てが私たちを狙ってきたというのであれば。
「だからわざわざ、君の前でこの話をしたんだよ。指輪はともかく伝説のことを知らないなら、会話を始めたところで止めるだろう? それならそれで、妻が娘にこっそり指輪を渡せば済む」
「そうでございますな。もう少し、泳がせるべきでしたか」
だから父上はわざわざドーキス殿の目の前で話を始め、事態を把握しようとされた。何も知らなければそれで良し、そうでなければ……私たちの敵はドーキス殿の背後におられるどなたかだと、はっきりするから。
そしてそれを、私が知るから。
「では、指輪とご令嬢をお譲りいただきましょうか」
「断る」
うっすらと笑みを浮かべて、父上が思い切り床を踏みつけた。その途端、ぼふっと白い粉のような煙が応接間に充満する。
来客に不審者や、我が一族に敵意を持つ者がいた場合の緊急対策として仕掛けられていた魔術。もっとも長年動くことがなかったし、そもそも目隠しにしかならないけれど。本来ならばここで父上や兄上、使用人が武器を構えて対処するはずだったわ。
ただ、煙が吹き出した瞬間私の身体は反射的に動いた。火の入っていない暖炉の中に飛び込んで、奥の壁を思い切り蹴りつける。
ここには隠し通路があって、屋敷の外に抜け出せる……らしい。もちろん狭いもののようだし、今まで使う必要がなかったから使えるかどうか、出口が今でも機能しているかはわからない。ただ、暖炉を通り抜ければ立って動ける程度には通路としてしっかり造られているみたい。外に向かって、下り坂になっているのが分かるわ。
「なっ! げふ、げふっ」
「カラクレンの屋敷には、脱出路の一つもないのかい? それは無防備だね、ご子息から伝えておきたまえ」
「出口はわたくしどもも存じ上げませんけれど、この敷地の中でないことだけははっきりしておりますわ」
煙に巻かれて慌てるドーキス殿を煽るように、父上と母上が意図的に声を上げられるのが聞こえる。そうして私のところには、兄上が駆け寄ってこられた。
「兄上」
「早く行け。元気でな」
「……はい」
兄上のお言葉に背を押されるように、私は後ろを見ずにスカートをたくし上げて進み始めた。その私の背後で、がらがらと音がする。通路の入口である暖炉は、簡単に崩せるポイントがあるらしい。そう、父上がおっしゃっていた。それを使って、追っ手を妨げるためだとか。
……私は、まっすぐに通路の先を目指すしかなかった。真っ暗な中、遠い昔には煌々と照らしていただろう魔術の残り香の、ほんの微かな明かりを頼りに。