4/1 PM9:30
「別れて」
「好きにすれば」
一文字、一文字をゆっくりと喉から絞り出すように紡いだ言葉は彼のいい加減な言葉に簡単に塗り返された。
彼は澄ました顔でカウンターの向こう側に立ち、淡々とカトラリーを磨いていた。
予想どおりの反応に私は内心ため息をつき、希望どおりの返事でないことに落胆の色をにじませた。やはりそうくるか。と、思いの外その結果に落ち込んでいる自分に気づき彼に毒されていると苦笑した。
本当は、万が一少女漫画のワンシーンさながら『別れたくない。俺から離れるな』などと引き止めてくれるのではないかと甘い期待をしていたが、それは本当に私の描いた甘い幻想に過ぎなかったようで。イタい乙女思考を暴走させていたことを反省した。
当たって砕けろとは言うものの、本当に砕けてどうするんの。
言わなければよかった。けれどそうするしかなかったんだもの。私は深く反省しながら無意識に俯いた。
私を見つめる彼がカウンター越しに険しく眉をひそめていたことなど知る由もなかった。
苦く香ばしいコーヒーの香りがふんわりと広がるこの喫茶店は、初めて店に訪れた一年前から変わらない。時間の流れから隔離されたような不思議な空間はいつ来ても干渉するでもなく拒絶するでもなく、ほんのりと暖かく私を迎え入れてくれる。
時間と喧噪に押し流されるように生きてきた私にとってこの喫茶店はひどく居心地がよく、気づいた時には心の拠り所になっていた。
年度の変わり目という忙しい時期だからか、窓際のテーブルを占領する数人の主婦のグループと、奥の二人がけの席でパソコンと睨み合う学生風の若者が帰ってからは店に客は入らなかった。この店のひっそりとした雰囲気に居心地の良さを感じ、住処にしてる人も案外多い。早い時間帯ですでに客がはけるのは珍しいことだった。
彼は客が来ないことに見切りをつけると店の扉にcloseのプレート下げてしまい、早々と夜から営業を開始するバーの管理者への引き継ぎを始めた。
昼の部を終えた小洒落た喫茶店のカウンターテーブルを挟んだ距離に向かい合う形で二人きりになった。陽はすでに沈み、いくつかの電球と壁に沿って光る間接照明のみの店内はぼんやりと薄暗かった。
私は横目で彼を一瞥したが、彼は依然として表情を変えることもなくカトラリーを磨いていた。カチカチと時計の音がやけに大きく響く。二人の間に漂う空気が重かった。彼の無言の圧力が確実に私の精神を削ぎ落としていくため、非常に居心地が悪かった。
しかし、ここで押し負けてはいつもと同じ結果になってしまう。私は気を紛らわすためにすっかり冷えたコーヒーカップを手に取った。
苦いコーヒーが脳に染み入り、気持ちも少しばかり落ち着いた。そして今日の私は一味違うのだと意気込み、彼の顔をジロリと見た。
「引きとめなくていいの?」
言葉尻ははっきりと、けれど口調は柔らかく女らしく。私は精一杯の大人の“余裕のある女”を演じた。
内心では彼の仕草一つに一喜一憂し、この後どう転ぶかを想像しては滑稽なほど焦っている。
「引きとめてほしいの?」
彼は間髪入れずにそう答えた。
挑発的に言葉に体が芯から急速に冷えていく感覚にとらわれた。我ながら私の心は脆い。
引き止める程の価値のある女ではないと言いたいの?
挑戦的に仕掛けたのは私の方であるにもかかわらず、攻撃は難なくかわされ、挙げ句の果てには彼の素っ気ない返しの一撃によって私の心に亀裂が走る始末。
今日こそは少しくらいは動揺させてペースを乱すことができると思ったのに、私の予想は見事に外れた。動揺させられてどうする。
煌々と輝く電球に照らされるその顔は腹立たしいくらい無機質だった。
彼の端正な顔はいつも以上に感情が乏しくみえた。何を考えているのかがさっぱりわからない。結局、また彼よりも私の方が彼のことを考えている。
揺さぶりをかけたのは私の方なのに、気づけば立場は逆転し、彼の含みをもたせた返事に見事に私は振り回されていた。
彼は核心的な部分にはなかなか触れない。
笑顔で笑いあっても、時間を共有しても、素肌を合わせても、私に要求をしない。
もったいぶって、焦らしに焦らして、散々弄んでも、私の要求には答えない。
彼には好きと言われたこともなければ、愛してるの”あ”の字も聞いたことがなかった。学校やバイトの帰りに彼のいる店に寄って談笑して。彼の勤めが終わったら彼の家にお邪魔して、抱かれて。
距離ばかりが近くて心が遠い曖昧な関係。
彼の素振りからなんとなく好かれていなくもないのだろう、と思っていた。けれど彼に愛されているかと問われれば、それはわからないとしか返すことができなかった。私ばかりが彼を思い、彼のバイト先に通い詰めている、そんな現状にやっと気付いてゾッとした。疑問を持つことなく先の見えない暗闇に突進している自分が怖かった。
こんな将来性の無い男、さっさと乗り捨てるべきなのかもしれない。居心地がいいからと、炬燵の中に足を突っ込んだままでいるように、彼に寄り添い私の妥協で成り立つようなこの関係を続けるべきではないのかもしれない。
そうはわかっていても、私が自発的に彼から離れることはなかった。どうせできないのだ。
気付いた時には手遅れだった。闇雲に突進した結果、闇に飲み込まれた。私は深い深い沼の中にいた。そこで誰にも治すことのできない病気に侵されていていた。
彼の声に、瞳に、熱に囚われてしまった私は、もう逃げられない。
振り回されるだけ振り回されて、何度も食らわされた待ちぼうけ。
それでも私は彼を嫌いになれなくて、とうとう聞いてしまった。
私のこと、どう思っているの。
もちろん知らない方が幸せで、知ろうとしない方が彼から嫌われるリスクが低いことも理解していた。だからこそ我慢をして笑顔で耐えた。それで彼と一緒に居られるのなら構わないと思った。
けれど、我慢を代償に得られる彼との時間は快楽と苦痛が表裏一体で。重くなってはいけない、束縛してはいけない、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど私自身が雁字搦めに拘束された。彼との楽しい時間が積み重なるほど、身動きが取れなくなって息をするのが苦しくなった。
一方的な恋がここまで辛いものだなんて思ってもみなかった。
私のことが好きですかなんてストレートに聞いて、煩わしそうにされたり、距離を置かれたら。嫌いです、所詮体だけ、なんて返された日には立ち直れないかもしれない。だから別れ話を持ち出して彼の出方を見ることにしたのに。ここまで快諾されるとは夢にも思わなかった。
想定されうる中で一番最悪な結果にどうして陥ったのか。何がいけなかったのか。考えれば考えるほど、涙腺が緩んでいく。
こんな結果になるならば彼の真意を確かめるようなことはせず、流されるままに与えられる快楽を享受していればよかった。けれど、確かめずにはいられなかった。
だって人はみな疑う事が大好きで、信じることが下手くそで、裏切ることが得意な弱い生き物だから。
人は人を試したくなる。
「なんて、全然驚いてくれないのね。今日のために考えた嘘なのに」
私は戯けた笑みで誤魔化した。痛々しい場の空気が和らぐように。全てが冗談であると彼にわかってもらうために。
今日は4月1日だ。私だって保険をかけずに動くほど馬鹿じゃない。彼を試して、芳しくない結果が出たとしても、今日のせいにしてしまえばどうにかなると考えていた。冗談だと笑い飛ばせば明日からはまたいつもの日常と関係に戻れると思った。
「そう」
彼は短く無機質に答えた。
私の戯けた声が場違いに感じられるほど店内は異質な静けさに包まれていた。
沈黙が流れた。
またいつものだんまりかと私は肩を落とし、胸をなでおろした。ない交ぜになる気持ちを押さえつけて唇を噛んだ。収穫はあまりいいものではなかった。己を奮い立たせて曖昧な関係から踏み出したのに、見事に返り討ちにされてしまった。
彼はそれ以上の言葉を返すこともなく、淡々と手元のカトラリーを真っ白いクロスで磨いていた。いつにも増して空気が悪く、私はその異様な雰囲気に恐怖を覚えた。怖くて彼と目を合わせることができなかった。仕方なく彼の男性らしい大きな手を見ていた。クロスに寄って磨かれる金属ナイフが照明の光に反射して猟奇的な光を放っていた。
どうにも居たたまれなくなった私は逃げるが勝ちと荷物中から財布を取り出した。
そうして最後に彼の顔をじっくりと目に焼き付けて帰ろうと顔を上げた。
私は反射的に全身を強張らせた。危うく財布を手から滑り落としそうになる。胸騒ぎが止まらなかった。どうしてそんなにーー。
彼は笑っていた。
緩やかに口角を上げて鋭く光るナイフを手際の良く磨きながら、あからさまに怒っていた。
「僕で遊ぶのは楽しいかい?」
沸々と揺らめく確かな怒りをその目に宿して。なぜここまで怒っているのか、怒らせてしまったのか私には理解できなかった。