0.クローゼットランド
彼女が最後に覚えているのは、母の死ぬところ。
大きな刃物が揺れている。
しゃっくりにも聞こえる引きつった笑い声を上げながら、大きく太った男が床を軋ませながら歩き回っていた。奇怪な音を上げるその度に、茶色く染まった歯から糸を引いて唾が飛ぶ。
部屋の中には、男の体臭と血のそれが混じった酷い匂いが蔓延し、それは、少女が身を隠しているクローゼットの中にまで侵食していた。
息苦しさに思わず荒くなりそうな息をぐっと抑え、少女は衣服やカバンの山の中でさらに身を小さくした。年は五、六歳だろう。短く切りそろえられた真っ黒の髪と、やけに白くて骨ばった手足が目立つ。
少女はクローゼットの扉の隙間から部屋の様子を伺う。男の向こうで母が横たわっているのが見えた。血に塗れたその体は最早少しも動かない。
荒い息で部屋を歩き回る男は、落ち着きなく首を動かし、明らかに何かを探して回っている様子だった。
見つかるのも時間の問題だとわかってはいながら、少女は小さな奇跡を祈って腕の中のものを抱きしめ、その柔らかな髪を静かに小さく撫でる。
その時、床にへばりついてベットの下を覗いていた男が、ゆっくりと顔をあげてクローゼットを見た。焦点のあっていない目だったが、それでもしっかりとこちらを捕らえたような感覚に少女は息を飲んだ。それは錯覚ではなかったようで、男は口の端を上げ、にたりと笑うと、焦らすようにゆっくり立ち上がり、クローゼットに向かって、まっすぐ歩き出す。
どうしようもないと悟った少女はただ、せめて少しでも痛く苦しくなく死ねますようにと祈りながら気を失うように目を閉じた。
クローゼットを開ける大きな音と共に、頭の皮膚が骨から剥がれるかと思うほど痛みを感じて、少女は思わず「ぎゃ」と短く叫んだ。
髪を掴まれて半身、布の山から引きずり出され、床にうつぶせに倒れる。
柔らかいそれを潰したような感覚に慌てて起き上がり、腕の中を確認する。水色の布を巻かれた赤子は少女の下敷きになったにも関わらず、まだすやすやと眠っていて、少女は庇うように慌てて抱えなおした。
「見ぃーつけた!」
この場にそぐわないやけに明るい様子で、太った男が声をあげ、茶色い歯を見せて大きく笑った。
はじめて真正面から対峙する男は、驚くほどに図体が大きかった。着ている簡素な鎧の丸々とした腹の部分や太い指が握る40cmはあろうかという刃物には、べったりと黒くなった血がこびりついている。
少女は、逃げ道を探して、目だけをすばやく動かしあたりを確認する。部屋の出口は男の真後ろにあり、その前には無残な姿になった死体が横たわっている。男の意表をついて、横をすりぬけることができたとしても、赤ん坊を抱えて逃げ出すのは自分には難しそうだ。そんな風に考えながら、無意識に後ずさりをすると、すぐにクローゼットの中にあった布の山に阻まれた。
「へへっ、一匹たりとも逃すかよ」
舌足らずな口の中でくぐもった声でそう言うと、恍惚とした表情を浮かべ、刃物を持っていない方の手を少女に伸ばす。その手にも、刃物と同じくべったりと血がこびりついていた。
少女は恐怖に声も出せずに、胸の中の赤子を庇いながらぎゅっと目を閉じる。
「止めておけ」
男の後ろから聞こえた落ち着いた声に、少女は顔を上げた。部屋の入り口に、目の前の男と同じ簡素な鎧に身を包んだ男がもう一人立っていた。
「無駄な殺生はするな」
「ああ?誰一人逃すなって言ってたぜ?」
「……この村の者は、だろ。二人とも黒髪だ。どう見ても違うじゃないか」
少女を顎で指しながら、太った男の横に並んで少女を見下ろした。少女と同じ黒髪のその男も、目の前にいる体の大きい男と同じような格好をしていたが、身に着けているものが幾分か良いもののようだった。黒い頬当てに顔の半分は隠されているが、太った男よりは随分と若そうだ。
太ったほうの男がじとりと音がなるほど青年を睨みつけながら、少女と赤ん坊に顔を近づける。
「んなもん見た目だけじゃわからねぇだろ」
「……あ、の、ち、違います。私も……お、弟も、この村の人じゃありません」
胸の中の赤子を隠すように抱きながら、少女が声を絞り出す。
「ああん?」
苛立った様子で睨み返す大男に少女は声もなく萎縮する。その様子を見て、青年は面倒そうにため息をついて髪の毛をかき上げた。
「今朝方まで奴隷商が、この村にいたみたいだ。子供を売ってたんだかは知らないけどな。まだ近くにいる可能性もあるから、念のため早く引き上げるらしい」
行こうとでも言うように青年は男の肩に手を置く。男は諦めきれないのか肩にかかった手を舌打ちしながら乱暴に払い、おもむろに少女の腕を掴んだ。
「やっ……!」
「おい、いい加減に……」
思わず赤子を取り落とした少女を手一本でクローゼットから引き上げると、頬ずりでもするように顔を近づける。
「へへへ、俺の取り分だぜ」
へらへらと笑いながら、少女の頬に舐めるようなキスをした後、吊り上げたまま、じろじろと疑わしげにその顔を見つめた。その表情がみるみると不機嫌に変わっていく。
「ちっ、マジじゃねぇか!」
「……だから言ったろ」
ため息交じりに言う青年を男は腹立たしそうににらみ返す。
「くそ!紛らわしい!こんなとこにいんじゃねえよ、くそが!」
少女を床にたたきつける。何かが砕けたような潰れたような鈍い音を立てた少女の姿を見て一息吐くと、男はすぐに背を向け、音を立てて出ていった。
硬い床にたたきつけられた少女は床に伏せたまま動かない。青年はそれを微動だにせず見下ろした。
「……死んだか」
そう小さく呟き、赤子の方に一歩踏み出したところで、「だめ」と小さく少女が呟いた。青年が声の方に目を向けると、少女が赤子の方に向かって片手で這いずりはじめた。片方の腕はまったく動かないのか床に擦り付けるように引きずり、頭は重たそうにぐらぐらと揺れている。そんな状態……ましてや幼く細い腕では、自分の体重すら重たいのだろう。その場で小さくもがくばかりで、クローゼットまでの距離はなかなか縮まらない。
青年はその様子を少しの間見た後、何も言わずに踵を返し、静かに部屋を出た。
「……っ」
打ち付けた体の痛みと内臓が回る感覚に耐えながら、少女は片手だけでクローゼットの方に向かう。額からは脂汗が大量に流れ出て、床にぽたぽたと音をたてて落ちた。
幾らにも感じる距離を這いずり、ようやくクローゼットに辿りついた少女は祈るように中を見た。赤子は運良く柔らかな布の山に落ちたようで、怪我一つないどころか、周りの状況など気にせず、まだ穏やかに眠っている。
少女はその様子を見てほっとしたように息をつき、そして改めて赤子を見つめた。
すぅすぅと小さく寝息をたてる赤子に眉を下げると、手を伸ばし、自分の懐に抱え込む。赤子がいた場所に身体を滑り込ませ、できるだけ布の山に隠れるように背を丸めたところで少女は意識を手放した。
次に目覚めた時は、薄いが暖かい布団の中だった。見慣れない布の天井に何度か瞬きした後、少女は勢い良く起き上がる。辺りを見渡して、自分の足元にあった籠を見つけると、縋り付くように覗き込んだ。赤ん坊のブルーグレーの瞳と目が合うと、少女はほっと息をつく。赤子は少女の顔を見て声もなく笑った。
「目が覚めたかい?怪我の具合はどう?」
急にかけられた声に驚き、少女の肩が大きく跳ねた。赤ん坊が入った籠を背に庇うようにゆっくりと振り返る。
そこには、長めの茶色い髪を後ろで束ねた男が座っていた。膝の上に紙の束を抱え、ペンを走らせている。先ほどの男達と同じように鎧を着ているが、色は銀色で、随分と上品で良いものに見えた。
少女は目が覚めてはじめて自分の身体を見下ろした。体中に包帯が巻かれていて、特に左肩は固く固定されている。もともと着ていたスカートとセーターではなく、病院着のような白いワンピースを着せられていた。少女には随分と大きく、大人のもののようだ。
「……」
痛む肩をぐっと我慢して、黙って男性を睨む少女に、男性は苦笑する。
「そんなに警戒しなくていい。と言っても無理な話だね」
苦笑いをした男性は、膝の上のものをテーブルに置くと、立ち上がってベットに近寄る。少女は動くほうの腕でかき抱くようにかごから赤ん坊を取り出すと、小さなベットの上で少しだけ後ずさった。
男性はベットの脇に膝をつくと、上面に顎が付くのではないかというほど頭を低くする。
「私の名前はアベル。君は?」
驚くほど優しい声でそう問いかける男に、少女は少したじろいだ。警戒しているのか、目だけを動かして周りを見ているが、まだ口は開かない。
少女が言葉を発さないのを見て、青年は姿勢を直し、そのままの位置で床に腰を下ろした。先ほどから浮かべてる笑みは変わらぬままだ。
「ここは魔法騎士団のテントの一つだよ」
「……まほうきしだん?」
「そう、アルカーシャの村が賊に襲われているという話を受けて、飛んできたんだが……連絡を貰った時には時は既に遅くてね……。今、君たちのように生存しているものが他にいないか確認しているところだ。ただ、申し訳ないんだが、なかなか……」
「……あるかーしゃ?」
小さく呟くような声で復唱し、首を傾げる少女に、今度は青年が不思議そうに首を傾げた。そしてゆっくりと口を開く。
「……いや。……君達の名前は?」
少女を見上げるようにした青年が、先ほどと同じ問いを投げかける。
少女は首をかしげたまま、宙を見た。その様子は、何かを思い出そうとして、困惑しているようだった。青年はただ静かにその様子を見守っていたが、少女はいつまでも口を開かず、顔をより白くするばかりだった。
青年は立ち上がって、先ほど書類を置いた机から一通の手紙を持って、また少女の近くに跪く。
「これを。君達が倒れていた部屋で見つかったものだ」
少女に差し出すと、彼女は赤ん坊を抱いたまま、それを受け取った。
「師匠へ」と書かれたその手紙を、少女は何の迷いもなく開けて中身を広げたが、まだ文字が読めないのか首をかしげている。
青年は優しく手を差し出すと、少女がおずおずと手紙をその手に乗せた。一言一言、絵本でも聞かせるかのように、青年は穏やかな声で内容を読み上げる。
詳細な宛先と、町が賊に襲われていること、最後の力で我が子だけでも逃がそうとすること、そして可愛い我が子の面倒をお願いできないかという手紙の他に、封筒の中にもうひとつ入っていた、一枚の写真を手渡される。笑顔の男女が寄り添うように写っているその裏には、「親愛なるわが子レイとチトセへ。ごめんなさいね。どうか元気で、幸せになって」と書かれていると青年は言った。
「お父さんとお母さん……?」
不安そうな顔で、呟く少女はじっと写真を見つめる。
「もしかして、君は、記憶が……」
青年が呟くと、少女は手紙から顔をあげて、青年を正面から見た。黒く澄んだ瞳は、ようやく理解したとでも言うように光を灯した。
「どうしよう、あたし、何にも覚えてません……」
ぎゅうと胸の赤ん坊を抱きしめながら、少女は目を閉じる。そうしても、浮かんでくるのは先ほどのクローゼットから見た惨劇ばかりで、それより以前の記憶が何も無い。そう力なく呟く少女の背中を、青年がそっと撫でた。
「………」
背を撫でる青年の手や、胸に抱く赤ん坊の吐息の音が驚くほどに温かくて優しくて、少女は情けないのと悲しいのと、そして、助かった安堵と……なんだか色んな気持ちが入り混じってテントの中でわんわんと声をあげて泣いた。
彼女が最初に覚えているのも、母の死ぬところ。
約三年ぶりの投稿です。お久しぶりです。はじめまして。
完走できるように頑張ります。
日々の楽しみの一つになれたら幸いです。




